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Le Nocturne

深淵を覗く時

幸せと死の二項対立

最近、自分が幸せな時の思考を言語化することの難しさを感じます。苦しい佳境に立たされたときは何とかして言葉という形態をもって捻りだそうと出来ますが、幸福な感情を表に出すときの表現方法がそう言えばわからないなと。どんな風に幸せですか、とか、いやいや幸せは幸せでしかないでしょう、と最高に頭の悪い回答しか出来ない気がしますし、まあなんというか、要するに少しの退屈と課題の山積している日常がすごく幸せですってことが言いたいだけなんですけど。

でも今回の幸せの類は、何かいいことがあった時のそれとは違って、今日も一日ありがとうみたいな、教会の「今日のことば」にでも掲げられていそうな感情の一つで。その気になればいつでも綺麗ごとで陳腐なものへと昇華出来そうなこの感情に名前を。言葉は常に嘘を孕んでいますから。

北朝鮮のミサイルで急に冷たいナイフを首に突き付けられたような怖さを感じて、そう言えば去年の今頃は始めたばかりの一人暮らしで熊本などの立て続けに起こる地震に怯える日々が続いたことを思い出します。四月はなんだ、急に死ぬことを自覚させる月なのか。青い鳩にみんな思いの節を垂れ流して、死ぬのは嫌だのこんな世界滅べばいいだの、好き勝手なことを申しております。残念ながら私はまだ生きていたい身分なもので、死ぬときは家族と一緒が良いよなぁとか、今日最後に家族と交わした会話を思い出したり、急に切なくなったりします。

 でも世の中の多くの人は現実味の無さげな噺には興味もないみたいで、目の前の女子高生は好きな男の子の話に花を咲かせ、サラリーマンたちは新年度の会計が一段落したことに安堵の表情を見せ、空にはちぎったような柔らかい雲が大きな青に浮かんでいるだけで、日常が本当にそこにあります。そこに。

死ぬ宣告がないこと、いつ命が終わるのか分からないように設計してくれた神様には憎まれ口の一つでも叩いてやりたいけれど、やっぱりそんな宣告いらないと思いました。誰かが誰かをそっと思う気持ちがいつまでもいつまでも続きますように。

それにしても

死ぬことを考えるのを止めた途端にこれだから、やっぱり何かしら神様からいつ死ぬか分からないこの世界に少しばかり心の準備をしておけよ、と言われている気分です。