C'est la vie

新大陸の湖畔

宮崎・県立劇場にて

どんな舞台であれ終わってしまえばあっけなかったの一言に尽きることが多い。技術にも体の使い方にも音楽にかける情熱にも偏りすぎない職人的なバランスのとり方が要求されているような気がした。終わってしまえばまた、私は忘れてしまうのだろうか。忘れたくない。

課題なんて上げだしたらキリがないのだけど、私は傾向として今回自分ができたことに関しての振り返りをあまりしてこなかったように思う。自分を責めることはある意味一番簡単で流されやすい行為なのかもしれない。これが出来た、あれが出来なかった、とちゃんと分けることの如何に難しいことか。当たり前のことを当たり前に言うことの如何に難しいことか。

 

特別何か宝物を見つけたような目新しさとかはなく、ただ淡々とこなしてきた練習が若干の緊張を伴いながら発表されたような演奏。あまり満足いかない。(必ずしも自分の満足感と観客の満足感が一致するものとは限らないという話はまた今度)。どんどん加速を進める人々の中に共通する何かを探し求めてはああかもしれない、こうかもしれないと考える。結局のところそれは何の意味のなさないものだけど、そんな使い捨てのような感情さえも使い捨てることができないくらいには今の私には裁量することがままならない。

でもそんななかで、最後に何か救われたような気持になるときいつもそこには「好き」という感情が存在していて、少し人に言うのは恥ずかしくて憚れるようなこの感情は何かを前に進めるには欠かせないものだったと知る。宮崎駿が引退会見の時に引用した「この世は生きるに値する」というメッセージは彼ら映画関係者だけでなく、芸術という枠組みの中で生きる皆がきっと知りたがり、皆がそうであると信じながら死んでいった者たちだ。

 

それはさておき現実的なお話が待ち構えているのも事実である。一流と呼ばれるプレイヤーの多くは何か外してはいけない筋みたいなものを押さえながらも遊び心を程よく散りばめたもので、簡単に言えばセンスが良いだの感性が素晴らしいだのそういう風に一言で言えてしまうものだ。しかし、料理に塩をふりかけて何故おいしいのかと言うと料理がおいしいから塩がさらに引き立たせるのであって、塩は料理には成りえないのだ。そんな料理と味付けの関係を思わせるような演奏は、どこか美味しいと感じたり、色が見えたり、気象現象の総体として見える空や雲がふわっと香る瞬間がある。

 

とりあえずの振り返りはここまで。