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Le Nocturne

深淵を覗く時

夕日の色

 楽語や音符、音名や表示記号、目に見える情報というものがただただ鬱陶しかったあの秋の暮。どうしたら「音がただそこにある」という演奏に近づくことができるのか、何か外してはいけない筋みたいなものを幾度も乗り越えたその先に見えるまで、まるで真空のような音しかない世界にたどり着けるのかが分からない。

 そう、死ぬまでの残された時間なんて本当に限られている。親しい人が死んだわけでもない、何か直接的な関係があったとかでは全くない。しかし、昨日の夜は布団でじんわりと温められていく足とは反比例して心のどこかで「夜」が「死」がそこにあった。小さい頃は何かここではないどこか遠い場所に思いを馳せる瞬間があったけど、それと同時に自分がどこに向かっているのか分からなくて恐怖した。今日という日が一回しか来ないこと、たとえ同じ電車に毎日乗るとしても、何かそういうことが本能的に分かっていたから今日という日を最高の一日にしたいといつも無意識にも思っていた。でも夜のお布団の中で本当に私の体はいつか冷たくなり、燃やされ、灰になって消えゆくことを想像してみると「死ぬときに一体全体私は何を向こうに持っていくことができるのだろうか」と悩む。

 死をダシにしたお涙頂戴のストーリーがありふれているこの世の中で、何故か人前で大きな声で死ということを話すのはなんだか憚れるような空気がどこか蔓延している。別にそういった話を東京のど真ん中で話したいとかいう願望があるとかではなく(そういうのは然るべき宗教団体にお任せすればいい)、どこかで永遠に続くと思われているこの日常に我々はあまりにも平和ボケしすぎているような気がしてならない。私の大好きなAvril Lavigneだって”Is it enough to breathe? Somebody save my life."と言っているのだ。残された時を息をしているだけで十分なはずがない。

 だからなのか、分からないけれど音楽がやめられない。そこには音楽がしたい!という積極性を持った姿勢ではなく、一度味わえばやめられないという病的なものかもしれないし私はそういう音楽の在り方のほうがしっくりくる。

 

 話がだいぶん逸れた。何か新しいものを創造するという行為のみが生きていると思っていた数年前の私ならきっと上記のことがスラスラ言えたに違いないけど、今は少し違う。確かに死ぬことは怖いし、この世界における「死」という概念がぐっちゃぐちゃになっていて生き辛さを感じていることには変わりないし、音楽におけるスリルはやめられないほどにもう私の体を蝕んではいるけれど。でも速足でどこかへ駆け抜けなければ生きている実感が得られないわけではもうないし、毎日同じことの繰り返しこそが本質に迫りうる唯一の武器になることの確証も得られた気がした。結末を早く知りたがるその性は頭が切れることでも賢いわけでもない。結末をあえて先送りにできる勇気が無いだけで、あえて身を預けて流されることを恐れているからだ。もっと世界は可能性を持っていて、余白が存在するはずなのに。

 音楽の本質に近づくための手段として当面の目標みたいなものは設定するようにしている。ここ最近は細かい目標は変わるものの、一番は「どれぐらい音そのものを言葉の音の域まで近づけることができるか」にしている。本当に言葉の次元に達した音楽は、聞いている者に不思議な感覚を授けてくれる。誰が、何の楽器で、どこで演奏しているといったディティールは音を繋ぐためのただの媒介にすぎない。音そのものが言葉となり、息遣いが見え、そこに命があることを証明しているかのようだ。それは巨大な音楽の効果として人々のうちに余韻をもたらし、まさに「生」を実感する。それは食べるといった行為や性行為という一時的な命をつなげるふるまいにはない魅力のような気がする。

 アルゲリッチによるシューマンのピアノ協奏曲は、まさに私自身がこの音楽の効果を身をもって感じたうちの一つであり、最初のピアノのワンフレーズだけで曲の最後まで見通せるような、素晴らしい景色を一望したかのような感覚を教えてくれる。シューマンのため息、生きていたということをピアノという楽器を通して時空を超えて話しかけてくれる。ここには最早この場所も、ピアノも、ここに集った観客も、彼女という存在でさえも意味をなさず、ありふれている宙を漂う音の粒子だけを丁寧にろ過して目に見える形で引き出しているだけだった。

 

 

youtu.be

 

何のために、とか、何でなのか、ということが大事にされる世界にはもう興味はあまりない。大切なのは、あなたが何をしたかよりも何を夢見て生きたのか、ということであってほしいし、これがいくら夢物語と言われたとしてもいつまでも心のどこかで願っている。