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ある春の日の夜の話

町を歩くと春が近付いているのを如実に感じる瞬間がある。

体感温度がグッと上がっただとか、降りしきる雨に冷たさを感じなくなっただとか、そんな表面の話をしているんじゃない。

春が冬の心を溶かすような、ちょっとの甘さを添えて私を飲み込むその無邪気さにいつも何かを思い出しそうになって結局思い出せないままでいる。いつの頃の記憶か分からないけれど私がまだ本当に小さかった時。夜の藍色の海が見えるベランダで闇を羽織った風が撫でるように頬を掠めた時。お母さんにだっこをしてもらいながら月明かりを溶かしてばらまいたような海の煌めきを眺めていた春の夜。優しい気持ち。

知らない町から帰ってきて自分の元来た道を振り返ればいつも見ていた景色だったときの安心感とか、多分もう味わうことは出来ない。思い出すことはあっても。

もう戻れない幻想を歩きながらふと思う瞬間が私の中で春が来たと思える証。

 

今年にはもう20歳になっちゃうね、とかもう今年度が終われば大学も折り返し地点じゃない、とか、私が求めていた知らない町の不安とは少し違う今の焦りとかも結局はあの頃の私とは何も変わらないんだと思う。グーグルマップもスマートフォンも無かったあの頃の、「この先を進めば必ず何かがあるから大丈夫」という確信は多分人生にもいる。知らない町からいつ帰れるかという心配よりも、知らない町で私のやりたいことをやりつくした人が、きっと最後はどんな形であれ私の納得の行く自分の故郷に帰れることを信じたい。

いつか巡る春の日に、知らない町から勇気を出して。