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Le Nocturne

深淵を覗く時

演奏者の不在

雑記

自分がもういらないと切り捨ててきたもののなかで何か特別な素敵なものに出会えた瞬間は、切り捨ててしまっていた自分の愚かさを恥じる一方でまるで宝物を見つけたような気持ちになる。大げさでもなく、この音楽に出会うために生まれてきたと思える刹那、小さい頃に見つけたキラキラした石、大事な人形に対して抱く感情に似ていたのかもしれない。それほど原始的な「愛情」とも呼べる心だった。

そんな経験は図らずもがな忘れた頃にやってきて、予期せぬ涙で鼻の奥をツンとさせることが多いんだけど。 

ブラームスのピアノ四重奏第3番。特に緩徐楽章にあたる第三楽章は何とも言えない奇跡みたいな音楽で、響きが豊かなE-durの曲になっている。全体の構造としてはc-mollとなっており(交響曲1番を彷彿とさせる)、最後はC-durの華々しい印象で曲を終えるのだが、それでも第三楽章のE-durは煌めきを感じさせる楽章でこの3番のなかでは特異な存在のような気がした。青年期に書かれたこの曲をブラームス自身が20年後にまた復興させて(いや元々も素晴らしすぎるけど)命を吹き込んだ作品なので、晩年に見られる陰鬱とした表情よりもどちらかというと若さや希望の方が少し勝っているような音楽の作りになっている。

 

演奏者はもうそれは世界の「良い」という評価を溢れんばかりに貰った先輩だったけど、私が過去に演奏を聞く限りあまり好みではなかった。世の中には二つの演奏家が存在すると仮定して、一つは技巧的にも感性も音楽性も素晴らしい上で作曲家の曲の上に自分の意思を乗せて演奏する演奏家だと考える。もう一つは聴衆と作曲家を繋ぐ完全な媒介になりきる演奏家だ。後者はなんというか、圧倒的に上手いことになる。そして今回の演奏会のブラームスでは先輩は後者の演奏をやってのけてしまったわけで。化け物が誕生した瞬間を目撃してしまったようなショックな気分だった。

舞台上に演奏者という存在はほぼ無に等しかったのだ。そこにいるのがたまたまその先輩だっただけで、ただ、そこに、偶然にも音楽だけが存在しているのだ。ただ「ある」音楽を先輩が楽器から引き出しているだけ。技巧も感性も何もかもを越えた先にあるのはただの音なのだと思う。(言葉にするのは簡単だが、これは本当に凄いことだ。)

 

いわば、「演奏者の不在」の音楽。

 

150年ほど前、ここから遠いかの地でブラームスとクララとシューマンが三人である場所に集って音楽を奏でていた瞬間が確かに存在していたのだと確信できる音楽だった。きっといろんな話をしたに違いない。尊敬の念でシューマンを見つめるブラームス。自分の可愛い息子のようにブラームスを想っていたシューマン。その後結ばれずとも長い時をかけてブラームスに愛されたクララ。そんな一時が、せめて後に構える彼らの悲しい運命から目を背けられる瞬間になったらなぁという幸せを想う気持ち。全てが詰まったような音だった。

ブラームスにしてみても、自分の曲を何百年も後に生まれた遠い東の果ての島国の女に聞かれて想いを馳せられていたとは考えもみなかっただろう。この時を越えた何らかの繋がりに私はまた泣きそうになって、文字通り、「この音楽に出会うために生まれてきた」のだと思えたのだ。

 

何かまた上手くは表現出来ず興奮冷めやらぬままに書き尽くしてしまったけれど、ただただ化け物の頭のなかが気になってしょうがない。