C'est la vie

新大陸の湖畔

バッハを人前で弾く意味

この世で弾く意味なんて考えたところでただの思考の空費に終わるだけなんだけれど、一度考えたらもう無視できない存在なので。

 

結論からいって、ない。と思う。

 

私たち凡人の奏者はやっぱりどこかで愛されたくて、認めてほしくて、そんな承認欲求がちらほら見えてしまう愚かさが拭えない。そういう感覚は気を遣っていないとかなりの確率で聴衆に伝播する。そして聴衆からしてみるとそれは「異物」として認知され身体に入ることを拒むので、結局は承認欲求とはあまり役には立たない。

承認欲求のもとで演奏されるそれとは一番対極的位置を占める作曲家はなんといってもバッハだ。バッハの捉え方は人それぞれだろうが、私にとってバッハは孤独と静寂のなかでしか見つけられない内的世界に連れていってくれる案内人、乗り物、ツールと言ったところである。そこには観客などいらない。承認もいらない。あるのは自己内部と霊的世界と神のみ。

本日クリスマスは世界で最も静寂を許された日と言っても過言ではない。世間のクリスマスの光が色濃くなるのと対照的に、教会の救い主の降誕を待ち望む静けさは深く身体に染み入る。ミサでは神を賛美した曲が多く歌われるのだが、そこで直感的に私はバッハのそれと同じ感覚を体験することになる。

讃美歌は神と人間を繋ぐための、そして我々に分かるように作られた祈りである。置き換えるなら言葉と同じ役割を持つ。祈りは人がいようがいまいが遂行される。讃美歌に観客はいらない。人々が狭い教会に集まって各々が人生の意味とやらについて、神に救いを求めるのだ。私はこの構造とバッハを演奏することが同じものであると言いたい。バッハの曲とは、つまり祈りである。そこに観客はいらない。天と地上を結ぶ祈りであり、そこに承認欲求を見出だしたりするのは随分とお門違いな話なのだ。

 

指はただの延長物に過ぎないのであって、特定の瞬間に神と自分が繋がっていると感じる瞬間があるだけでいい。存在しない音の探求はまだ続く。