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Le Nocturne

深淵を覗く時

本質と手段が一致しないとき強烈な不快感が発生する

風呂上がり。程よく上がった体温は自然と眠気を誘い、うとうとしてくる。
うとうとしている時の私は色んな事を考えている。ハッキリ意識をもって考えてる時とはまた違って、ただ考えても無駄なことをボーッとただひたすらに、考え事の単位を最小にして考える。

今日はバッハのこと。
今までバッハに関しては大きく勘違いをしていることが多々ありすぎて、自分の無知さ加減に恥ずかしさを感じてからは少しずつだが手探りながらも勉強をしている。自分の知らないバッハの顔が明るみに出て、それなりにオールドの演奏に趣深さを感じていると当然ながら疑問も沢山湧いてくる。前述した通り大抵は考えても無駄なことなのだが。
何故、我々奏者はオールドの良さが全面に出されたバッハの曲をわざわざモダンで弾こうとするのか。トッカータやフーガをオルガン、リュートなどで聞くと余計に不思議に思えてくる。モダンで弾くバッハもあって良いではないか、モダンで良さを表現するのが楽しいんじゃないか、と言われたとしてもそれはなんだかお門違いのように思える。
手元にオールドの楽器がないからモダンでバッハを弾くなどという言い訳は最早甘えにしか聞こえない。世の中にはあまりにも本質を知らない演奏が溢れすぎているし、仮に本質を知っていようとその本質へと肉薄するアプローチが道を踏み外していることもある。
我々はバッハを現代からではなくウィリアム・バードやバッハ以前の作曲家演奏家の時代から見なければならない。自分がオールドではなくモダンでのうのうとバッハを弾いていること、本質を何だと知ろうとしない演奏家たち、手元に無い故に深く知ろうとしない御託並べる奏者。全てが許せない。

この問題は突き詰めれば私の演奏家人生のアイデンティティーをも揺るがす怖いものだ。ふと思えば「何故自分はクラシックを演奏するのか」という問いが生まれてしまった。今まで気付こうとしなかった問題。それしか道がないと思い込んでた高校時代。何故それしか道がないと思っていたのか。ダメだ。考えれば考えるほど足元がぐらつく。焦るな。

今日はバッハのことで頭がいっぱいでこれ以上考え事を増やしすぎると頭のワーキングメモリーがパンクしてニュートラルな状態に戻せない気がする。今日はここら辺にしてそろそろ髪を乾かして寝るんだ。

でも忘れちゃいけないのは、一番罪なことは気付こうとしないその怠慢な姿勢だ。