読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Le Nocturne

深淵を覗く時

音楽のちから

真理っぽいもの

まず記念すべき第1稿(先程のはまあノーカンで)は何を書こうと思ったが、取り敢えず後期から強く感じている音楽の力について考えてみる。

具体例をあげた方がイメージがつきやすいので小説家という職業と音楽家という職業の対比で音楽の力を説明したいと思う。
言葉と言うものは基本的に「時空間の拡張」の力を持っているものだ。小説を読み耽っている間は時間の流れが緩慢になり、読み手は流れている時間の長さは同じだとしても圧倒的な幅を感じることが出来る。それを意図せず感じさせる小説家は更に何枚も上手で、そのあくまでも自然な技術に何度も感服してしまう。

音楽はどうだろう。
先日私の師匠の演奏会に足を運んだときに気付いた点がいくつかある。師匠の演奏はそれはもう開口一番に素晴らしいと言ってしまうほどに、洗練された技術を越えた音楽を聴かせてくれた。思わず音楽とは何かと考え込んでしまうほどに。ブラームスのヴァイオリンソナタ二番のときに始めはゆったりと流れる音楽のエネルギーが私のからだの中巡り、心地よさにたゆたっていたのだが最終楽章でからだの中に蓄積された比較的に温度の低いエネルギーが一瞬にして四方八方に膨れ上がり、私は曲が終わっても立ち上がることが出来なかった。そこから考察するに、音楽家とは人のからだの中にあるエネルギーを操作する職業なのである。
小説というものは無意識的に私たちは「読み飛ばし」というものが出来るのだが、音楽はそうはいかない。一度席に座ってしまえば耳は音を拒むことがないのだ。それは決して変えられない奏者と聴き手の関係であり、音という無限の可能性に満ちた贈り物を聴き手はどうとでも捉えられる。

では音楽の力を踏まえた上で私はどういう音楽家になるのだろうか。
私の中にはここではないどこか「故郷」と呼べる場所があり、それは私に限らず恐らくすべての人類が持ちうる世界なのだろう。原風景と呼んでも良いかもしれない。普段の雑多な日常のために中々それに気づけない人も居るのだが、それを思い出せる切欠になるような音楽というものを届けていきたいのだ。「故郷」に気付くことは難しいことかもしれない。「故郷」を思い出しても幸せな気持ちになれないかもしれない。嘘よりも真実を好む人間は「故郷」の存在が鬱陶しく感じるかもしれない。でも私たちはその「故郷」を拠り所とせずに生きていくことは最早不可能なのだ。
私は「故郷」の力を強く信じても良いと思う。そうして私たちは「故郷」同士の共鳴に耳を傾けて心動かされるのだから。