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Le Nocturne

深淵を覗く時

顕微鏡でズームばっかりしてるから

雑記

音楽に意味なんてないのに、そんな空っぽな自分を守りたがるのは何故なのだろう。ただ好きなだけなのに、こんなに傷ついた気持ちになるのは何故なのだろう。

 

バンドによくある音楽性の違いによる解散とか言うやつは意外とバカにできないことが分かるし、相手の音楽性を考慮した心理戦はもっとバカにできない。

細やかな心づかいだとか、相手の主張をやんわり諌めながら自分の主張を伝えるだとか、高等テクニックすぎて私には。

 

核心を突く行為はいささか色気がないのは分かっているがなんせ時間が余裕を許してくれない気がして。

 

でもそんなごちゃごちゃした柵を忘れられる瞬間も不意に訪れる。その時は本当に満たされたみたいに幸せな気持ちになるし、明らかに空気が変わるのが分かる。

 

良いことしか目に行かない幸せな人になりたいのに。

今が恵まれ過ぎていることも、分かっているつもり。つもり、ね。

 

 

 

久々に楽しいこと

雑記

久々に同郷の人と話が盛り上がった。って言ったって県跨いでるけど。地元について思うことがなんだか似ていた。ありきたりのそれじゃなくて、いや、多分会話的には関西人が故郷の何かを思うそれと何も違いないのだけれど、私もいつのまにか酷い訛りで喋っていたし、何か早口で会話のキャッチボールが成される捲し立てた口調の会話が関西だった。大阪の人間は何もない所からネタを生み出すのがうまいと思う。対して、神戸と京都は一つのネタを何層にも何層にもこねくりまわし、いじり倒して話のオチを作る感じ。だからオチが一回では収まらなくて、オチのオチによるオチのための戦争が始まる。殴り合いだ。でも一通り殴りあったあとの心地よい疲れは「あー関西」って気になるし、思えば昔の女子校にいた頃の会話もそんな感じだった。昔ってつい一年前だけど。

 

東京来て思うけど、東京人ってみんな人の話好きじゃない?気付いたら人の話ばっかりしてる感じする。みんながみんなちゃうけども。し、関西人だって人の話するけど、何が違うって東京人の人の話ってその人についての事実の列挙だけで、なんも話が進展しないような感じがする。だからネタを多くもっていた者が勝ち、みたいな風潮。いやしらんけど。関西人が人の話するときってある一つの事実をあーかもしれへんこーかもしれへんって笑いを交えながら空想の世界でいじり倒すようなイメージある。ここで誤解が生まれそうだけど、その人の核心的な部分をいじり倒すことで人格の否定がーとかそんなんじゃなくて、もっとふわふわした表面的なことを皮肉でなくただ笑いを求めてネタを生成していく感じ。てか、関西人はまず人の話より自分の話したがるから、そこから違うんかいや~って話。ほら、現に私も自分のことしか喋らない。まあここで人のこと言ってもなんも面白くないから言いませんけども。

要するに東京人ディスってる訳じゃなくて、ようやく一年住んで分かったことを列挙してるだけ。私も段々東京人になってきたな。わくわく。いや、ディスろう思えばいくらでもディスれるけど。関西も然り。

 

 

言葉

雑記 真理っぽいもの

何故か最近シューベルトばかり聞いている。意識している訳でもないのに、たまたまシューベルトが寄り添ってきてくれたような偶然。ありがたい話かもしれない。

歌曲なんて弦楽器奏者にはよっぽどの機会がないと聞けない。聞こうと思わないと。言葉にすれば価値が低くなることを知っているから、尚更踏み込めなかった。

でも食わず嫌いってちょっぴり勿体無い。言葉による価値の値下がりは、それは使っている言葉が悪いだけの話で、もしかしたら言葉こそ真の内的世界を伝えられる道具なんじゃないかと錯覚してしまうぐらいにシューベルトは天才だった。

ドイツ語の子音が音に対応するときにどういう発音をするのか、言葉の重みの比重がどの音にかかるのか、言葉から派生するメロディーが伴奏楽器によってどういった対位法的旋律で描かれるのか。全部全部繋がっていて、なるほどこれは奥が深い。

 

ドイツリートから学ぶ言葉と、僕らが扱うべき音楽と、何も違うものはなかったのだと思う。媒介として存在していたと思っていた言葉は実は物の本質に迫り得るぐらい、価値の高いものだった。

 

どうやら僕らが生きているうちに言葉を紡ぐのか、ちょっとだけわかった気がする。救われた気がする。

 

 

休みの日の朝は町から何かを消したような静けさがあること

帰り道では誰もいない君の町へ鼻歌を歌って帰ること

東京の夜空が意外と鮮明だったこと

僕らがいるこの場所が実は夜空へ飛び立つ宇宙船の船底だということ

黄色い目をした月が僕らを見つめていること

 

全部言葉にすれば消えて散ってしまう儚さのなかで、どうしたら君に言葉の裏側を伝えられようか。

ずっと悩んできた僕らと言葉の関係が、今明らかに。

 

 

 

何もかも奇麗事になるのを恐れずに言うならば

雑記

人が易きに流れるのはやっぱりどうかと思うんだ。手っ取り早の幸福は時間が経てば毒になる。僕たち四つん這いの動物じゃない。何のために脳みそを大きくしたのか考えなくちゃ。

 

独り言。

独り言。

演奏者の不在

雑記

自分がもういらないと切り捨ててきたもののなかで何か特別な素敵なものに出会えた瞬間は、切り捨ててしまっていた自分の愚かさを恥じる一方でまるで宝物を見つけたような気持ちになる。大げさでもなく、この音楽に出会うために生まれてきたと思える刹那、小さい頃に見つけたキラキラした石、大事な人形に対して抱く感情に似ていたのかもしれない。それほど原始的な「愛情」とも呼べる心だった。

そんな経験は図らずもがな忘れた頃にやってきて、予期せぬ涙で鼻の奥をツンとさせることが多いんだけど。 

ブラームスのピアノ四重奏第3番。特に緩徐楽章にあたる第三楽章は何とも言えない奇跡みたいな音楽で、響きが豊かなE-durの曲になっている。全体の構造としてはc-mollとなっており(交響曲1番を彷彿とさせる)、最後はC-durの華々しい印象で曲を終えるのだが、それでも第三楽章のE-durは煌めきを感じさせる楽章でこの3番のなかでは特異な存在のような気がした。青年期に書かれたこの曲をブラームス自身が20年後にまた復興させて(いや元々も素晴らしすぎるけど)命を吹き込んだ作品なので、晩年に見られる陰鬱とした表情よりもどちらかというと若さや希望の方が少し勝っているような音楽の作りになっている。

 

演奏者はもうそれは世界の「良い」という評価を溢れんばかりに貰った先輩だったけど、私が過去に演奏を聞く限りあまり好みではなかった。世の中には二つの演奏家が存在すると仮定して、一つは技巧的にも感性も音楽性も素晴らしい上で作曲家の曲の上に自分の意思を乗せて演奏する演奏家だと考える。もう一つは聴衆と作曲家を繋ぐ完全な媒介になりきる演奏家だ。後者はなんというか、圧倒的に上手いことになる。そして今回の演奏会のブラームスでは先輩は後者の演奏をやってのけてしまったわけで。化け物が誕生した瞬間を目撃してしまったようなショックな気分だった。

舞台上に演奏者という存在はほぼ無に等しかったのだ。そこにいるのがたまたまその先輩だっただけで、ただ、そこに、偶然にも音楽だけが存在しているのだ。ただ「ある」音楽を先輩が楽器から引き出しているだけ。技巧も感性も何もかもを越えた先にあるのはただの音なのだと思う。(言葉にするのは簡単だが、これは本当に凄いことだ。)

 

いわば、「演奏者の不在」の音楽。

 

150年ほど前、ここから遠いかの地でブラームスとクララとシューマンが三人である場所に集って音楽を奏でていた瞬間が確かに存在していたのだと確信できる音楽だった。きっといろんな話をしたに違いない。尊敬の念でシューマンを見つめるブラームス。自分の可愛い息子のようにブラームスを想っていたシューマン。その後結ばれずとも長い時をかけてブラームスに愛されたクララ。そんな一時が、せめて後に構える彼らの悲しい運命から目を背けられる瞬間になったらなぁという幸せを想う気持ち。全てが詰まったような音だった。

ブラームスにしてみても、自分の曲を何百年も後に生まれた遠い東の果ての島国の女に聞かれて想いを馳せられていたとは考えもみなかっただろう。この時を越えた何らかの繋がりに私はまた泣きそうになって、文字通り、「この音楽に出会うために生まれてきた」のだと思えたのだ。

 

何かまた上手くは表現出来ず興奮冷めやらぬままに書き尽くしてしまったけれど、ただただ化け物の頭のなかが気になってしょうがない。

 

 

 

というわけで

雑記

ちょっと目が覚めた気がした。憤慨しているときは自分が世界の矛盾を解きほぐしてやるんだと勇む時空管理局の管理人になった気分だった気がする。

 

世界の矛盾はもうどうだって覆せないし、矛盾があって丁度良いのかもしれない。時にはその犠牲になって、無力感を握りしめながら今を丁寧に積み重ねていくしかないんだ、と悟る。これが人生なんだって言われたらもう何も言えない。きっとこうして大人の皮を被った人間が出来上がるのかもしれない。

でもそんな無力感のなかで出会う言葉、人、想いだけが人生のタノシミなのだろうな。知らんけど。「この言葉に出会うために生きていたのかもしれない」って思える瞬間は、なんだか体が暖かくなる。ほんとほんと。丹田あたり。こわーい。

そんなありがたーい御言葉を頂くために苦しみがあるんだよ、って言われたら「しゃーなしな。」と言って前に進むしかなかろーもん。博多弁使ってみたけど絶対使い方違う。友人に博多のヤツがいるんだよ。うつるうつる。

 

死ぬときに誰かを想う気持ちしか持っていけないこと、音楽の前では皆平等なこと、時の流れを味方につけること、今を丁寧に積み重ねること、沈黙こそが正しいこと。2017年最初の峠を越えた気がした。

 

 

恥ずかしい話

雑記

恥ずかしい話。

同じ文章を読んでも全く感想が違った。今まで当たり前すぎて気付かなかった。ある文章を僕は涙を堪えながら読んだ。その傍ら世界はそれを鼻で笑っていた。

同じ音楽を聞いていても全く感想が違った。皆似たような感覚を共有しているものだと思っていた。ある音楽を僕は全く感動しないと思った。その傍ら世界はそれを正当なものだと評価した。

自分の関わる世界には大体同じような人間が集うものだと思っていたが、そうではなかった。むしろその逆に思われるぐらい、予想を裏切られる。生徒、先生、組織、集団、人間の束。人が集まったらもう怖い。彼らが何を考えだすか想像しただけでたまったものではない。

世界と僕らの埋まらない溝。最初は目に見えない亀裂だったのに、そこから蝕むように何かに囚われやがては目を背けることさえ出来なくなった。溝に悲観したいんじゃないんだ。出来るものならこんな溝、早く生コンクリートでもなんでも流し込んで平らにしてやりたい。

必ずしも良いものが選ばれる訳ではないのだとあなたは言うけれど。じゃあ何のための格付なのだ。何のためにわざわざ勝者と敗者を毎年毎年量産するのだ。

分かっている。音楽はそんなところに価値を置かないこと。

今はただ悔しい。何を言ってもそれは逃げとして捉えられること。甘えであると思われること。そして、それが根本的解決にならないこと、一番自分が分かっている。でもそうでも言わないと納得がいかない。僕はもっと頭を使え。賢くなれ。生き方はもう賢くなくていいから。ただ、ただ賢くなれ。よく考えろ。そして考え付くした先の感覚を解放しろ。

 

こんな悩み、グーグル先生でも分かんないよね。

 

ただ良いと思ったものを良いと言えないこの世界になんの意味があるのだろうか。

 

 

沈黙

真理っぽいもの

等間隔に並ぶ街頭が星の光を掠め取る。今日も夜空色の壁紙を貼っただけの東京の空で、巡り会えたかもしれない大事な何かをこぼして家路に着く。盛者が必ずや墜ちていくこの世界で、何が命を長く保たせることが出来るのだろうか。

格付の命は短い。音楽の効き目は長い。

そんなことをかつての椎名林檎も思い巡らしていたのだろうか。

 

時々、世界を支配している理が何なのか気になる。そんなものはいくつも存在していて、僕らはその総体として理由を欲しがるけれど、そんなものは後付けでしかないこと。知っている。分かっている。答えを先送りに出来る勇気が欲しいの。

それはもしかしたら「正しさ」なのかもしれない。全てのチャンスを欲しがる友人A。正しい道を歩むための手すりが欲しい。お前の正義を振りかざしてただひたすら前だけを向いて走れ。

もしかしたら「儚さ」かもしれない。急に来た春のような残酷さを残して、僕らの将来を顧みないソレは僕らに無償の愛をもたらす。けれど、僕がそれを掴んだ瞬間に靄になって消えてしまう。盛者も、人生も、恋も、花火も、夏も、花も、音楽でさえも。消えていく運命。

他に考えられるならそれは「簡潔さ」だとも思う。遠藤周作の流れるような簡潔な文体。物事の裏側を支配する簡潔さ。僕らがいつも迷った時に戻ってくる場所が簡潔さを求められること。それは何かを極めようとした人には一度は訪れる感覚なのだろう。

 

一言で表そうとすること自体おこがましいのかもしれない。所詮、僕らは何かを創造するときの苦しみでしか生きている気がしないのかもしれない。今までの全ての言葉がただの「逃げ」でしかないこと。君は「頑張らなくていいよ」って僕に言うけれど、僕は取り敢えず富士山を登ってから頑張るか頑張らないかを考えてみることにするよ。富士山が富士山だって、分かるまでちゃんと登らないと分からないんだ。登ってから「ああ、頑張るのやめた」って言える人生だったら良いんだ。

 

そして今ならやっと言える気がする。

「沈黙」こそが正しい、と。

 

 

 

多分みんな思っていること

雑記

人に自分がこう考えていると決めつけられるのが嫌で、選択肢を迫られた時にどちらかの立場を取ることを極端に怖がる情けない自分がいる。責任が取れない。責任を取るまでの自分の好み、価値観に自信を持って首を縦に振ることが出来ない。

自分の良いという感覚と世界の良いという感覚に差異が生じている。同じであることは気持ち悪いし、別に同じじゃなくても良いって頭では分かっているのにね。臆病な自分はこれからも人に受け入れられないこの感性を持ち続けて生きていくのかも知れないと思うと、なかなかのもので。しかもそれは天才だから凡人とは違うとかいうソレとは違って、明らかに自分は凡人です。なんだかもう時限爆弾を抱えながら奔走している気分。いつそいつが爆発して自分が死ぬか分からない。僕たちみんな生まれながらに死刑囚だ。死刑執行人は誰だ。

 

でも一方で、それが可笑しいって思える自分もいるんだ。偉い人の言うことに従う奴を見てみる。なんで従うのか聞く。曰く、偉い人は正しいらしい。偉い人は間違えない。偉い人は絶対らしい。キモい。それって自分で考えることを責任放棄しているんだろうなって思うけど、分からなくもない自分も居て悲しい。ある意味「正しい」方向に連れていってくれる人が自分の道をなんとなく整えてくれる安心感があり、それを知っているからかもしれない。でも長い目で見たらそれはキモすぎる。いやいや、お前なんでそれが自分の人生だって胸はって言えるわけ?ってなる。

となると、話はややこしくなって、そもそもお前の「感性」とかそんな立派なこと言える立場に自分って居るっけ?ってなる。ただひたすら今は「一流」って言われるものを浴びるように見て聞いてかじって、ってそれだけで良いんじゃないかって思ったりする。誰かが20代なんて誰からも認められなくて良いって言ってたし。知らんけどな。

総括すると今の何も出来ない無力感からただ逃げたいだけ。今なら世界一カッコ悪い女になれる。僕たちほんとは生きているだけで、それだけで充分すぎるぐらいに素晴らしいのに。今を丁寧に生きて積み重ねるしか術がない。どういう道を歩んでいくのかとか考えるだけ思考の空費でしかない。

 

妙にリアルな話をしてしまった。色気がない。

 

 

どっちも正義なんですけどね。

雑記

 

 

お前の言ってることは筋が通ってないよ。きちんと正してまっとうに生きろよ。

 

 

 

お前の言ってることは正しいよ。でも正しさは人を殺すぞ。

 

刹那

移り行く夕日の影とか。

何か言いかけて口をつぐんだ夕焼けとか。

空の粒子をめいっぱい詰め込んだ楽器とか。

暗い部屋で緩やかに流れることを許された時間とか。

君と一緒に歌った誰も知らない歌とか。

全てが愛しくて、忘れちゃいけない。

 

この日のために生きてきたのかもしれない。

 

僕たちは何故か知っていたんだよ。飛行機から見る空の広さも、校舎の窓から見上げる世界の美しさも、指先から感じる空気の鋭さも、実際に見るより前に。

心のどこかにある君へと繋がる故郷に。

 

遥か昔から、涙が塩味だったこと、海が塩味だったこと、空がこんなにも寂しかったこと、知っていた気がしたよ。

 

君が、君自身がそこにいること。知っていたよ。

 

 

そう、あなたは私のスーパーマン

雑記

ありえない速度と温度を持って1週間が私の頬を掠めていく。

人生で初めてフラれた。

人生で初めて孤独を告白した。

人生で初めてお前の存在を無条件に肯定した。

拒まれ続け、何かを失った気になった。ぬか喜びが終わり、成長している気になっていただけだった。言葉を重ねて自分を武装して、何もない自分を隠していた。

でも、自分がもう関わることのないと思って勝手に切り捨てていた人のなかに、私を無条件に愛してくれる人がいた気がした。丸裸になった自分を「そんなお前もお前なんだよ」と肯定してくれる人がいた。ダサくてみっともなくて認めてあげられない自分を認めてくれる人がいた。

 

孤独に咽び泣いた日々が、綺麗なものが一瞬で消える儚さに切なくなった日々が、言葉が孕む虚無感に怯える日々が、少しだけ、少しだけ救われた気がした。

 

そんなのお前の気のせいだよ、と言われても。

 

真理の詰め放題バーゲンセール

真理っぽいもの

人間が成長するために必要なものが好奇心と劣等感という事実は、この世で一番美しい形が円であることと同じぐらい普遍的な事実であります。

今日はあまり良いことがなくて、ひとしきり泣いた後に昼からぶっ続けに弾きまくってたら自分がよく分からなくなった。落ち込み方まで下手くそだった。明日の実技試験をどういう心持ちで弾けば良いのか考えたけど、今はあまり考え込む時じゃないって分かってたから気付かないフリをした。考えたら涙が出そうになったから。

上へ上がるものと下に落ちていくものの違いは何なんでしょう。何か一つの分野を極めるには他の分野を知る必要があるというのは、一見矛盾にも見えるのですが、実は全く矛盾なんぞしておりません。そういうことなのでしょうか、神様。

 

2017年。年始に抱いた今年はあまり良いことがなさそうだなという予感は1月にして見事的中してきております。順調に。過去の失敗談が後の美談になる気持ち悪さが大嫌いなので、このまま行けるとこまで良いことなさを丸ごと抱き抱えて奔走してみようと思います。

 

一つ引っ掛かるのはこの釈然としない感じ。まだ把握しきれてないが故でしょうか、きっと。お腹が空いただけかもしれない。

 

 

女の子のスカート

真理っぽいもの

この世界、上手く回っていると感じる理由の一つに「大切なものは常に隠されている」という法則だった。

 

それは実に美しいと感じる瞬間に付随する何かしら約束された理であり、早い話女の子のスカートの中身の話でもあったり、そんなことなかったり。

 

確固たる信念、みたいなものは持っていた方がなんかイケメンに見えるんだけど、なんせ僕たち今を積み重ねて生きていかなきゃならないから持久力も持っておかないといけないわけで。いっつも「確固たる信念が」とか言ってたら疲れちゃう。だったらね、ある程度幅を効かせられる柔軟性を持つ方が多分やっていきやすくなる。ある一定の指標は必要でも、全てを映し出さなくていいわ。核心なんて突いちゃ色気がないよ。

 

例えば、誰かと「紫」っていう色を作りたくなったとして。一人で作るのも楽しいけど、多分二人で作った方が楽しいわけさ。その時に私の思う「紫」とあなたが思う「紫」をなるべく近い色に合わせようとするとどうしても上手く行かなくなる。相手と価値観がばっちり一緒だったら気にならないかもだけど、普通なら微妙な差が生まれて、どうしても「どこまでその色に譲歩して合わせられるか」が問題点になるのよ。

でもね、私は「赤」を持ってくるからあなたは「青」を持ってきてねって言えたらね。それを混ぜ合わせて。そうすると調整できる隙間みたいなものが生まれて、それはとても肌に馴染むものになるの。譲歩というただひたすらマイナスにしていく作業から創造っていうプラスの行為に変換されていきそう。余裕が生まれる。余韻みたいなものが出来て、受け手にも紫の効き目が長く感じる。

 

大切なものなんて私だけが知っていればいい話なの。わざわざ言わなくたってあなたにはあなたの哲学があるのでしょう?

 

風に揺れたスカートのその中身が何色だなんて知らないけど、世の中知らない方が幸せなことばかりじゃない?

 

 

間際

真理っぽいもの

「死ぬときってあの世に何を持っていけると思う?」

 

ここはどこだか分からない。壁も天井も白く、何もかもを浄化する意思を持って僕の周りにそれが佇んでいる。僕はなぜか白み切った夕暮れを映す窓辺に小さな椅子を一つ拵えて、白いベッドに横たわるお姉さんを見つめていた。

もうじきお姉さんは旅立つ。旅立つには早すぎるのに、お姉さんはさっきから窓越しに見える枯れた木の葉の揺らめきばかりを気にして僕のほうなんか興味がないように微笑んでいる。窓から差し込む黄昏を溶かしたような光にお姉さんと僕の影がうっすら伸びている。

 

「少年、君は向こうに何を持っていきたいの?」

不意にお姉さんは黒の瞳をこちらに向けて僕を捕らう。

「僕は...」

 

何を持っていけるのだろう。そもそも自分の中に何があるのかも分からないのに。

「僕はすごく怖い。自分の中に生きる意味だの答えを求めても最近めっぽう見つからないんだ。自分を裏切らないで生き抜く自信を持てるのか分からないんだ。僕は誰にも、僕自身でさえも僕を知られたくない。暴かれたくない。こんな中身のないものを暴かれてしまったらおしまい。本当に何もないんだ。」

 

 

 

「じゃあ君はもう私がいなくても大丈夫だね。」

お姉さんは優しく笑って続ける。

「生きているうちに自分の中に付加価値で存在理由を見出すなんて。死ぬ時にはね、記憶さえ持っていけないものよ。だけどね、人間って誰かを愛することで何か自分がここに居ても良いんだって思えるのよ。いくら自分の中に答えを探しても見つけられないのかもしれないね。」

僕はなんだか涙が出そうになって、だけどお姉さんが急に遠く感じてグッと自分の胸のあたりを無意識に掴んでいた。いやだ。遠くに行かないで。

そんな声もむなしく僕は恐らく最期になろう言葉を問いかける。

「この世界の鍵は何なのかな...僕は何を持っていけるのかな...」

 

指先が透明になる。

「沢山苦しんで、恋をして、誰かを愛して生きていきなさい。大切なものは目に見えないから。見過ごさないで。方位を誤らないで。使われすぎて価値の下がった普遍的な言葉にまた命を吹き込んで。未来を強く信じて。きっと、きっと大丈夫。」

 

いつの間にかお姉さんは旅立っていて、僕は白に取り残された。けれどそこには確かなさっきまでの温もりと、息が横たわっていた。ちょっぴり寂しくて、もうここには一つしか影が伸びていないけど、今なら僕にも何か持っていけそうな気がした。

 

「ありがとう、お姉さん。僕は誰かの幸せを願うこの気持ちを持っていくことにするよ。」