C'est la vie

新大陸の湖畔

第一フェーズとしての発見と思考

 第一に「まずは人のせいにしてみる」

 

ここ最近立て続けに私自身が蒔いた不幸の種が時期を見計らったように一気に花咲かせている。自分の甘さだとか、融通の利かない真面目さとか、こうして今も必要以上に自分を卑下してしまう癖とか、長年頼ってきた全てにおける思考回路はなかなか心機一転して前進させられない。それもこれも私の大事な人たちがかなり冷静に私のこと見てくれて、助けてくれているからこうして今はただ辛うじて生きている心地を確かめられる。

いつもだったらまた「やってしまった」と思うだけなのかもしれない、と思うとゾッとする。ついに外からぐっさり刺されてしまった今、どうも今回の事件に通底する要素として考えられること、それは考えるピントがずれていたことのように思う。

自分のことになると何でこうも冷静に見れないんだろう、とか、相手に多少の非があっても謎の謙虚モードが発動して全て自分が悪いんだと抱え込もうとする癖とか、とにかく相手を詰るという意思そのものが欠落しているのかもしれない。それはここまでぬくぬくと温室育ちで成長してしまったからかもしれない。あーん分かんないよー、助けてどらえもーん、といった次第。

考えすぎだよ、と言われた次の日には考えが足りないと言われてキレそうになるのも、多分きっと考えるべきピントがずれているからそういわれるんだということも最近少しずつ分かった。

誰かに昔、「人の顔色伺いすぎ」って怒ったような気がしたけれど、あんなの全部ブーメランで自分だっていつだって誰かの顔色伺っている。自分が色んな事をやりやすいように周りの環境を「波風を立たせない」という目的で顔色伺ってたけど、いつの間にか顔色伺うことが目的になっているのは怖い。私、いつの間にこんな縛られていたんだっけ。あれ。

 

上記とは別の話として。

間違いとか失敗をなんだか過剰に恐れているような気がして、今回の第一フェーズ「人のせいにしてみる」を反映させるとするならば、それは紛れもなく私の親と母校にある。やっぱり昔から「後ろ指刺されるようなことはするな」「出る杭は打たれる」とか言われてきたのは言われてきたし、母校だって「正しい道を歩く歩き方」を教えてくれたとは思う。そこらへんはき違えると変に保守的になるし、現に自分から出た錆をちゃんと掬って背負っていく責任みたいなものは、私には少ないのかしらと思う。

 

次になんで人のせいにするのが嫌なのか考えてみる。人が誰かのせいにしているところを見るのはそこまで苦痛じゃないのに、いざその立場に回れば途端に嫌気がさす。誰かのせいにしている自分がカッコ悪すぎて受け入れられない。結局はカッコつけのために色々と余分な荷物をしょい込んでいるのかな。全部自分が背負ったら状況がましになるとでも本気で思っているのかな。他との同調の世界が居心地がよくて、反発がそこまでいけないことなんだろうか、本当に。

 

ここまで少し長く整理してこう変わりたいって書いてみたつもりだけど、事態は一向に良くなる感じは正直あまりなくて、ここまでくると自分に対して実は口だけで本当にそう思ってないんじゃないの?と疑問を投げかけたくなる。

 

 

終わり

 

 

ほんとどうかしてるみたいだけれども

 

世の中に普及する「信じる」のうち、本当の「信じる」にはかなりのエネルギーを必要とすると思う。

昔、誰かに「信じるって口にした途端にそれが嘘になっちゃうじゃない」って言った気がする。だって、信じてるって言葉にしたらまるで信じてないからそう言ったみたいじゃない。

今の「信じてる」はどちらかというと「念じてる」方の「信じてる」だ。こうあってほしい、そうであってほしいという期待が叶う時もあれば、見事に裏切られていく時もある。それでも楽しいし、そういうサプライズは本当に好き。

夏の夕立が狂おしいぐらいに好きなことを思い出した。暗雲に雷がゴロゴロと喉をならして、私は今か今かと雨を待つ。一気に雨の匂いが地面から立ち上ってきて、それは昔の記憶を強烈に呼び起こしてくれる。大雨のなかで水溜まりに飛び込んで裸足になってはしゃいだの、覚えてる。きちっとした正装も、ワンピースも、体さえ着ていなかったあの頃を思い出して、今から絶対に何か起こる何かにじっと目を凝らして息を潜める。

 

いつでもあの頃に帰れそう。あ、これが「信じる」って気持ちなんじゃないかって言われた気がした。

 

 

鈍色の気だるさ

 

 一夜にして街から猫が消えてどこかに行ってしまったような寂しさ。大事に握り締めて白線の上を落ちないように歩いてみる。不在の存在は嫌い。いつまでも知らないでいたい。

手持ちぶさたの感情は深い悲しみの海にまた一つ溶けていく。色んなところで関係ないと思っていた話は深い海の下で繋がっている。別の海じゃない、僕のなかに一つしかない海で温かく悲しみという感情がたゆたっている。

今日もあのメロディを口ずさむ君がいる。やっぱりソレからは逃れられなくて、クラリネットみたいな優しく甘く痛い感情の音で目の前がいっぱいになる。人間みたいで、官能的で、痛くて、確実に絡め取られていく感覚が心地よくさえある。乱暴に奪い取って欲しいっていう欲望とか、心からジワジワと痛みを感じたい願望とか、根本的な痛みをメロディに乗せて君は口ずさむ。

 

水中で目を開けた時みたいに、くぐもって見える世界へ、深い海に向かってゆっくり泳いでいく。

 

悲しみの正体がこの深い海なのだとしたら。途端に目眩がする。こんな海、飲み込まれる以外に非力な僕が何を出来ると言うのだろう。引きずり込まれるように最後のゴングが5回なる。深い海が「君はやっぱりここに戻ってきてしまう運命なんだ」と囁いているよう。

肺が潰れそうな呼吸を一つ。君と心中。

 

 

暑さで頭がやられている

 

今、こうしてはてなを更新するには何か特別な意志があるわけでもない、紛れもなく地元で一人取り残された自分をジワジワと殺してくる夏の暑さと眠気とダルさを片手間に相手しつつ会うべき人との再開を待っているだけ。要するに暇である。

阪急電鉄が好き、という台詞は既に100回は繰り返したし、地元が恋しいと言うには若すぎるこの精神的に年端の行かない微妙なお年頃にいつも地元は温かく迎えてくれる。というか暑い。

恩師に会って、近況を喋り、高校の友達に会い、一人で奮闘していた東京を思い出す。もうどこか完全にここではないどこかが私の場所になってしまった今、やっと私は関東の人間になったのだと自覚した。新大阪に着くや否や勝手に訛り出すこの口だって、見てくれが関西人なだけであってやはり心が求めているのは東京だった。関西は好きで東京は好きじゃないけれど、消去法でいくと東京なのだ。私が私を前に進めたい地は東京にあって、関西にはないのかもしれない。そんなことないだろうけど。私にはまだ関西が恋しいとははっきり断言できない。

昔の私を知る人間に最近の悩みだとかこんな人間になってしまったことを呟く。そうすれば「昔からそうだったじゃない!」って笑われて、あれ、そうだったっけって戸惑う。人から見た自分はやっぱりよくわからなくて、でも分からないところで困らない。ずっと井の中の蛙みたいな気持ちかもしれないけれど。

 

いつの私も原動力は「知らないことがあるのは怖い」という気持ちなのかもしれないこと、あながち間違ってはいない気がするんだ。

 

 

ほんとの気持ち

 

頭が偉い時代が終わりました。

 

長くて、窮屈で、矛盾だらけで、けれど温室。

これからは頭の時代の名残を惜しみながらちょっと背伸びをして、休憩して、背伸びをして、休憩。頭の時代もあれはあれで良いものでした。

想像が好きだったことを思い出しました。捻り出した想像じゃなくて、もっとこうなったら素敵だなって気持ち。

昔、弾きながら何考えてたのかなあ。何かを怖いと思ったことあったのかなあ。あったけれど、もっともっと愛しさで溢れてました。

頭の時代は全部の行為に意味を見いだしがち。この行為に何の意味があるのかそんなの分かりません。まずそもそも発展途上の僕たちが自分の行為に意味を持たせることの意味がよく分からないです。それは、多分、年に2回か3回「よし!」って時に意味とやらを思えたらそれで良いです。

頭の時代に携わってくれた沢山の人々に愛と感謝を込めてサヨナラのキスをします。どうも、ありがとう。あなたたちは私より遥かに素晴らしい感性や、考えをお持ちでした。どうも、今この時代の私に出会ってくれてありがとうございました。愛しています。

 

今トビウオになって空と海バタフライ。

 

頭の時代が終わることは馬鹿になることじゃない。きっと、もっと遠い地平線へ歩みを進めていけるための最初の第一歩。

 

 

憂鬱

 

今まで頭の使い方とかピントがずれまくった脳ミソとか、そういう事態に陥ってることに気付いた。

いろんな人に「考えすぎだよ」って言われ続けて、「いやいや、お前はじゃあ何考えてんの?なんで考えないの?」って言うのは随分とお門違いな返答だったらしい。特に音楽に置いては。

分かりました、どうやら私、頭と心のバランス感覚が鈍っていたそうです、出直してきます。と申し上げたところで私がワンナップキノコを摂取して大きく成長出来るかと言われたらそうでもないんですよねえ。時間がかかるんですよ、タイムタイム。宿屋に行って「いつまで休む?」「朝まで」って言って体力が全回復するような世間は甘くないんです。

言葉って一番尊くて一番底辺の存在じゃないですか?私、言葉がだいっきらいです。滅んだら困るけど、今一番滅んでほしいです。特にこの傾きまくった脳ミソには、ただの縛るための縄にしかならないみたいです。そうですねえ、言葉をなじるよりはそれを操れない管制塔をなじるべきなのでしょう。

いくら私が「心で感じます」と言っても今の私では全て頭で考えているように映るのでしょう。

 

ねえ、助けて、音楽。

 

 

世界が終わる夜に

 

 

神様がその人から何かを奪うとき、一体その心は?

例えばお気に入りの傘、思い出の手紙、言葉、大事なペット、最愛の人、若しくは自分の命。

その人から何かを奪って、残された人間は何を思えば良いのだろう。残されたものの痛みは?どうして奪っていってしまうのだろう。奪い去ったあとに残された何かに気付くのはどれだけの時を重ねた頃だろう。

 

かと思えば、奪われた命の重みの違いを感じる日々にどう向き合えば良いのだろう。電車に跳ねられた人だって、本当は同じ命の重みなはずだけど、やっぱりそこまで頭とか気持ちが回らないってのは現実なのかな。遅れた電車のことばかり考える人々が悪いとか言いたいんじゃなくて...。どうしても拭えない違和感とか、心に大きな穴が空いてしまったような何か大事なことが抜け落ちていく喪失感とか、そうでもしないと日々をやり過ごせない忙しすぎる現代人の話だとか...。

 

 

たとえば孤独な夜が過ぎ
わりと良い朝が来る
どうせ変わりやしないのに
みんな何かに手を合わせてる

たとえば虚しく時が過ぎ
馴れ馴れしい静寂が来る
しまった!もう世界は終わっていた

あの子もその子も不安ぶっ飛ばしてさ
いけてないジョークで Hey Hey Hey

わたしが神様だったら
こんな世界は作らなかった
愛という名のお守りは
結局からっぽだったんだ

たとえば砂漠で花が咲き
また不幸の種がなる
どうせ育ちやしないから
みんな何かに目をそらしてる

たとえば優しく風が吹き
後悔の兵隊が来る
しまった!もう心は穴だらけだ

今もどこかがいろんな理由で
壊れはじめてる Hey Hey Hey

わたしが悪魔だったら
こんな世界は作らなかった
命の砂時計は
結局からっぽだったんだ

暇つぶし出来る話題を
くだらない笑い声と嘘を
探し続けるの
わたしからっぽだから

わたしが神様だったら
こんな世界は作らなかった
愛という名のお守りは
結局からっぽだったんだ

わたしが悪魔だったら
こんな世界は作らなかった
命の砂時計は
結局からっぽだったんだ

 

夏1

夏の湿気のうねりが嫌いだけど、思い出がいっぱい詰まっているから嫌いになれない。プール開きの朝はこんな感じの空気。自転車を立ち漕ぎして、海風を目一杯身体で受け止める。潮の匂いを身体に満たすと自然と笑顔になった。雨の日は空気が確かな質量を持ち始めて、それらが人間を飲み込んで頭痛とか眠気とか耳が詰まった感覚といった形で襲ってくるのが面白い。確実に空気は意思をもって飲み込んできて、ああ、夏だなって思った。

離れ

別に置いていってる訳ではないけれど、どんな形であれある種のお別れというものが物事や人の縁には存在する。

人伝に聞いた誰かのため息に、心が苦しくなる。ちょっと涙が出て、だけどそれでも健気に応援してくれる姿が切なくてまた泣きそうになる。

大丈夫、いつまでも好きだよ。

メモ

 

今あるクラシック音楽と言われる音楽は長い歴史で見れば一大ムーブメントに過ぎなくて、クラシックもまたある種の民族音楽なのだ、という考え方はかなり好き。

 

100年後、もうピアノなんて過去の産物なんだと言われる世界がすぐそこに来ているのかもしれない。

 

 

世迷言

 

全く知らない国の全く知らない音楽を耳から流し込む。

いつもと違う時間に道を歩いて、猫がいない高架下を見つめてみる。

高校の時にした授業中のノートの端っこの落書きにはもう会えない。

全部錯覚。錯覚。錯覚。

実はほんとのことなんて誰も知らなくて、事実なんてなくて全部私情とか感情とか混じってて、それが人間だから良いけれど、だったら今見てる世界が全部錯覚なんだってこともちゃんと認めてあげたい。

正しさなんてなくて、全部おかしいところがいっぱいで、でもおかしいままにほっとけない私たちは何とかして「おかしい」度合いをマシにしようと頑張ってる。おかしくない、おかしくない、お前がおかしいんだよ。誰もが普通でありたいもんね。

真実とか事実だけをもう追い求めるのはあまりにバカらしくて、これからはその先に見える個人的感情に焦点を当てることにするよ。ほんとにもう。

 

 

どこか昨日の自分とは違う自分でありたいって願っていて、だから毎日化粧をしたりしなかったり、ヒールを履いたり、リュックに変えたり、ちょっとずつ昨日とは違う自分にコーティングしていく。でもそれは理想に近付くための行為ではなく、どちらかと言うと身を守る為の引き算の行為だ。多分、昨日の自分になりたくないという衝動から来るおしゃれ。

泣いたり喚いたり出来ないのは受け止めてくれる人がいるって信じられないからだと思う。こうして人に責任転嫁しようとする心根が腐っている。こんな私を隠すためにコーティングして外堀から埋めていってしまう。そうしたらいつの間にか泣き方とか喚き方を忘れて、何かを主張するための内側が腐っていく。

理想と現実の区別をつけて傷つかないように折り合いをつけていくことが大人になるということだとすれば。

もっと自由になりたい。もっと自由になりたい。もっと自由になりたい!

下らないことで悩む私をどうぞ笑って。

愛はどこへ。意志はどこへ。自由はどこへ。

 

 

コンプレックス

 

打ち明けたい。私たちは世界中のささやかな秘密をこっそりと打ち明けたい。心に留めてはいけないのだ。私たちが今どこに向かっているのか、言わなければ世界中の秘密が腕の外へ零れて葬り去られてしまうのだ。

きっと打ち明ける必要があるのだ。旬は待ってくれない。今しかないんだ。

紙のための音楽じゃなくて、心のための音楽であるように。秘密を打ち明ける必要があるのだ。

 

って夢の中でジェニファーがしきりに言ってきた。

 

 

それでも世界は廻っている

かたつむりは、言葉とか意思とかどうでも良さそうでどうでも良くないものにいつの間にか足を取られています。

無法地帯の沼の存在を誰よりも恐れているから、きっと君は誰よりも竹を割ったような性格でありたいと思うのかもしれません。全てがぬるま湯に見えてしまうその目からは絶望と絶望と絶望と絶望を隠すための言葉、言葉、言葉。本当は熱い命の砂時計を心に流し込むための言葉が、心が、意志が欲しいのです。しかし、こんな体でそれは叶いそうにもありません。

今日も意思を言葉に詰め込む流れ作業です。ベルトコンベアーで流れてきた気持ちをラッピング。あなたも、あなたも、くるんで、くるんで。疲れているから形も大きさもバラバラ。そんなこんなで今日もかたつむりは誰かに嫌われながら、でもこんな嫌われ役も買って出るぐらいじゃないと上手く世界が廻らないのかもしれない、と、投げやりの目で意思を言葉に詰めていきます。この慢心とも言える心が、意志が、言葉が、無法地帯の沼で暴れる獣を沈めるただ一つの手立てだと信じているから。

 

 

相方

一時的に息を止めてしまった君に僕はなす術もなく君の横たわった体を意味もなく触り続ける。

目覚めた君はもう何も覚えてないようで、一緒に過ごした日々が一瞬にして消えてしまった喪失感とは如何なるものや。本当に涙が出そうになった。

僕は何とかして君に思い出してほしくて、また一緒に笑ってほしくて、いろんな場所に一緒に行きたくて、蘇生とやらを試みる。

そうして目覚めた君は「世界に色があって良かったね」だなんて呟いて、僕をまた泣かせるんだ。