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計画

ジェニファーの家は大きかった。

大きな庭に大きな遊具と大きなくすの木が生えていた。もう今ではどんな顔をしていたか覚えてないけれど、その茶髪のくるんとしたカールが素敵だった。

大きな遊具には梯子が掛かっている。2階が僕らの基地だった。ちょっと分厚い英語の本と綺麗な石と美味しいお菓子を広げたら、ちょっと出来るキャリアウーマンじゃない?ってジェニファーが言った。お気に入りのお人形は汚れたら嫌だから部屋に置いてきた。

大きなくすの木には自家製のブランコが掛かっている。それを漕ぐときっとお空の青さを突き抜けてどこまでも行けるんだと分かっていた。ジェニファーが「あの青の向こうには宇宙が広がっているのよ」と、覚えたての知識を披露してくれた。きっと私たちどこまでも行けるわよ、って本当に信じていた。まあ本当に行ってしまったらママが悲しむわ、ともジェニファーが言った。

私たちは基地に戻って宇宙旅行の計画を立てた。一大プロジェクトだから慎重に、だけど大胆にいかないといけない。まずはどこに行く?ってなったから適当に火星あたりを設定した。セーラームーンの火星役の子が好きだったから火星にした。寂しがりのママにはお人形の側にいてもらおう。

明日学校で会うサムエルにこの計画をこっそり打ち明けてやるの。きっと驚くわ。

 

 

伝言ゲーム

 

音楽と想い、どちらが先に来るんだろう。

言葉と想い、どちらが先に来るんだろう。

 

目に見えないものがより優位性を持ってるとしたら。出来れば心のどこかではそのどちらもが対等であってほしいと願っているけれど、テレビのコメンテーターの言葉はどこか薄っぺらく感じてしまうし、言葉や記号から解釈した音楽は心がどこかついてきていない虚しさで溢れている気がする。

でも目に見えない世界が仮に正しいとするならば、この世界は沈黙で閉ざされていってしまう。何も言葉を発することが出来なくなって、沈黙こそが正しいとなってしまう。それはいけないことだとも思う。やっぱり主張とかはあるべきだし、最近は意見を言うことがさして悪いことでないというのも何となく分かってきた気がする。

果たしてこの二項対立は優位性云々の話ではなく、どちらに比重がかかるかってだけの話かもしれないし、とにかく今出来ることは目に見えるものが薄っぺらくならないことに努めるだけの気がする。

脳みそっていうのは意外とバカで、実は身体の方が賢くて、もっと言葉とか音楽が脳みそターゲットじゃなくて、皮膚感覚で馴染んでくれたらこんなに悩むこともないのかもしれない。何もかも命令したがる脳みそは一旦おやすみしてもらった方が解決しそうな気もする。

そうなると、もっとこの身体を色んな感情に晒していく必要がある気がする。例え傷つくとしても。

 

 

幸せ

 

あんなに高校の友達と会うことを拒否し続けてたのに、そんな悲しい決意も脇に置かれて懲りずに会いに行く。多分、この気持ちは強がりかもしれないし、全て若さで説明をつけてしまいたいぐらいには私も若い。

帰りの電車は人身事故ですごい遠回りをした。あまり好きになれない黄色い総武線に乗り込んで、奪われ行く睡眠時間を思って京葉線を呪う。まあ別に30分早く帰ったからってその時間分の価値を積み上げる自信も気力もない。

変わり行くことが良いことかどうか、という問には多分多くの人がぶち当たっている。良い方に変わるなら変わった方がいいよね。でもそれっていつ「良い」って分かるんだろう。変わり果ててしまった同級生達をインスタグラムで見ながら「みんな変わったよね~」って隣で呟く君も日々変わっているだろうに。私も変わっているよ。変わらない人なんて居ないよ。などと言うには何か物足りなさがあって、自分でもよく分からなくて言うのを止めた。

素が美人だったのに今やキャバ嬢みたいになっているあの子だって、浪人しているけれどライブ狂になって親に黙って受験勉強そっちのけでライブに金を注ぎ込んでいるあの子だって、もう昔の顔がどんなだったか分かんないぐらいに大学デビューしたあの子だって、君はもしかしたら幸せなんだろうし、だから今の君の姿がそうなっているわけであって、そこに私が到底彼女たちの幸せを臆測でも決めつけることは出来ない。こうして本当に自分の将来もよく分からないまま好きなことばかりしている私だって。迂闊に口も滑らせたくない気がして、ただ頷いてみた。

 

倫理で一度は教えてもらう、昨日の君と今日の君は果たして同じ君なのかっていう話、すごく好きだった。物質的にも今日の僕らは昨日の僕らとは違うし、僕らという器のなかに入っている僕らの正体も毎日違うし、気持ちも気分も、変わらないものの方が少ないこと、知っておいてほしい。幸せってなんだろう。今日がいつの日か変わることが怖いと思った日の応援歌になりますように。

 

 

雑記

 

どうやら言葉と自分の関係について悩んできた時間と思考の積み重ねは無駄じゃなかったのかもしれない。多分まだとんでもなく甘くて、未熟で、そんなもんじゃないのかもしらないけれど、そういう風に気付かさせてくれた人達にはとても感謝している。

向き合ってきたいろんな人や本が衝撃をくれて、なにか私がなりたい姿やあるべき場所に少しずつだったけど言葉は連れてきてくれた。自分が何が苦手で、何が難しいのかも言葉が教えてくれて、時々それを携えることの難しさと厳しさを教えてもくれるけれど、どうしても言葉が音楽と同じぐらい好きなんだと思う。言葉が好きだから、音楽も好きなのかもしれない。言葉の不都合さや効力の強さや、それが故にこちらを縛ってくる危うさから救ってくれるのが音楽なのかもしれない。

 

先人たちが色んな想いや言葉を通して智彗を言葉の壺の底に優しく寝かせておいてくれる感じがして、色んな感情が美味しい言葉たちのおかげで美味しく仕上がっていく。

 

 

 

メモ

 

昔家族と泊まったホテルのロビーの匂いとか、プールに入りたくて、学校に行きたいとわくわくしていた七月の朝とか、梅雨に見られる一瞬間の晴れ間の時に見られる六月の空気とか、そんな断片的な記憶がどれぐらい音楽と結び付くのかが気になる。

 

まとまりのない話たち

 

世の中には二種類の言葉を駆使して二面性のある自分を揶揄する人間がいて、その人たちが使う言語が全く違ってくるのは至極当然の事なのだが、それは結果として自分の目の前に「選択肢」としてぶら下がって来るわけだから多くの混乱を引き起こし、だからじゃあなんだよって訳がわからないまま家路につく。

どの物事にも裏と表、陰と陽が存在しているのは確かで、もしかしたら白と黒以上にある側面というのは存在していて、だからグレーとかヤバイ色が出てくるわけなんだけど、いつまでもある側面から見た景色に固執し過ぎるのは危険なことだというのは赤ちゃんでも分かる。何にでも保険をかけたがるのは私が自ら進んで保険をかけている、と言うよりは保険をかけさせるように促した昔の環境が原因だし、こんなこと人様に言えば人のせいにするなと叱られて当然なんだけど、なんかそれはそれでムカつくから見えないところでこうやって文句を垂れる。

毎回同じところで躓いて、何でだろう何でだろうって逡巡して、結局は同じ場所に帰ってくるアホらしさにムカついて、原点回帰とかそんな生ぬるい感傷になんか浸ってやらないからな、私は。お前は一生そこでうんうんって頷いて感慨にでも耽ってろ、って過去の私に悪態付く。そうでもしないと一生同じ場所から抜け出せないじゃん、って同族嫌悪とそこに微かに存在する共感をくちゃくちゃに丸めてゴミ箱に捨てよう。

遂に教職を取ることをやめた。順調にエリート優等生街道(笑)から落ちこぼれに歩みを進めている。目に見える形での決別は最高に気持ちが良くてその反動に来る閉塞感に息が詰まる。たった一コマのために往復三時間を費やすほどあの学校は魅力的かと問われたらヤバイヤバイヤバイ。考えない方がいい。数人にしか言ってないのに、次の日には話してもない人間から「教職やめるんだって?」って言われた。早くあんな狭いコミュニティから抜け出してやる。それか誰にも見えない暗いところでひっそり生きていたい。それで演奏家目指すとかどういう神経してのって話になるけれど。まあ大して人はそんなに自分のこと見てないよなって後になって自意識過剰な思考全体に恥ずかしくなるのもいつものお決まりで、結局いたちごっこじゃんって振り出しに戻る。

文章が下手。そんなことを思いながら最寄り駅の高架下に住み着く猫の頭を撫でる。不在の存在を認めたとたんちょっと涙が出そうになって慌てて自転車を漕ぐ。空を仰げば飛行機が今日も飛んでいて、そう言えばあの人が飛行機にもちゃんと道があって毎回決まった場所を通るって教えてくれた。私が知らないことをよく教えてくれる。それから意識してみたら確かにいつも同じ場所を同じ方向に飛んでいく飛行機が見える。不在の存在ってずっと居ないということが続くわけで、不在に気付かなかったらそれは別に不在でもなんでもない。ショパンノクターンとか舟唄とかベタな曲ばかりがぽっかり空いた心を絡め取っていくようで、無性に涙腺を煽ってくる。

 

知らないことを教えてくれるのは好き。こんなつまらない原点回帰から手を取って連れ出してくれそうだから。いつまでも同じ場所に居るのはイヤ。よちよち歩きの自分が好きになれない。なんか本当にひっそり生きていたい気分だ。

 

関係ないけど、5本指ソックスは正義だと思う。コンクリートに舗装された床を歩き回る現代人の、あり得ないほどにバランスを取れなくなった足裏とあり得ないほどに膝にかかる負担、これらの原因ともなる扁平足はこれで少しは改善されると思う。どうも足の指を使わない歩き方は外反母趾になるらしい。健康増進の一環として定期的に5本指ソックスの日を全国的に設けたらいいのに。

 

 

ズレ

 

自分のおうちから出てみて、色々道草食ってはフラフラして時間を費やして、でもどの葉っぱもなんか違うなって思ってまたおうちに帰る。

そういう意味だと、その延長線上にある性善説とか性悪説とかは本当に興味深い。

私っていつ構成されたんだろう。いつ出来上がったんだろう。おうちはいつ建てられたの?

この葉っぱはスキ。あの葉っぱはキライ。

この景色はスキ。あの匂いはキライ。

この人はスキ。あの人はキライ。

 

自分ってやつはもしかしたら借り物の容器に借り物の感情をぎゅうぎゅうに押し込んだパッケージなだけで、そんな物差しを自分って果たして言えるのかな。

5月はなんだか弱気になるみたい。だって立ってる位置がまず違う気がするものね。

 

 

予防線

 

昔、小学校の頃に通っていた塾の話。

塾っていうには小さすぎてそんな仰々しいものではなく、個人で経営している近所のおばさんに算数と国語を習いに行っていた。私はまだ3年生で、そこにいた5年生とか6年生の人が私のお姉ちゃんみたいな感じだった。

今でもそうだけど、自分の知らない世界の話はとてつもなく遠い国の出来事みたいな感覚がする。お姉ちゃんたちの話は魅力的でちょっと「大人の味」がしそうな話ばかりだった。私はそれが好きだった。

 

「なあなあ、嬉しいことがあったときってめっちゃテンション上がるよな?」

「あー、まあ上がるよな。でもさ、上げすぎたときに実はそうでもなかったときの落差ってヤバない?」

「わかるわかる。めっちゃがっかりしてテンション上げ損みたいなとこある。」

「だからさ、うちは嬉しいことがあってもあんま喜ばんようにしてんねんか。やったらさ、その後悲しいことあってもなんか耐えられるやん?」

 

10年以上経った今でもこの会話はなんだか覚えていて、自分のなかで反芻していくうちに私もいつの間にかこの考えが染み付いてしまっていて、擦っても取れない。大きくなって、こういうのを「予防線を張る」っていうことだったんだって気付いても何年も頼りすぎたこの思考回路はなかなか捨てられない。

ちょっとカッコつけている人のカッコの付け方が鼻につくのも、「あー、こいつも予防線張ってるな~」って嫌いになって、でも多分それは同族嫌悪からくるそれだ。

 

言葉に何年も縛られるのは良くない気がする。

 

雑記

確かに女の中に備わる月に一度のサイクルとは別に、ある意味精神的なサイクルが存在している。毎週木曜日に風邪をひいたり、満月のころに体調がおかしくなったり、心の元気だけでは乗り越えられないと思うのはまんまとサイクルの思惑に引っ掛かっているだけなのか。

好き、気持ちいい、という一次的な感情表出による行動すべてに嫌気がさすことがある。なんだか気持ちよさに身を任せると自分が本当に馬鹿になってしまったような気がして怖い。そういう演奏も嫌い。何のためにここまで脳みそを大きくさせたのか今一度考えなおしたくなる。そうだよ、いつもその感情は原点回帰として大事だなとは思っているけれど、最初から考えられる術をかなぐり捨てて気持ちいいに走ることの気持ち悪さを君は分かってくれるだろう。理解もしてくれないだろうけれど。

でもじゃあ自分はどうなんだよ、と言われれば途端に怖くなるもんだし特大ブーメランの殺傷能力は非常に高い。いつでも気持ちいい側に落ちることはいくらでも可能だし、きっともっと音楽的にも人間的にもはるかに上回っている人から見ればこんな私だって気持ちよさに酔いしれているただの動物みたいに見えているのかもしれない。でもだからって発言権までは奪われることにはならなくて、自分が本当に腐らないように時々ブーメランの鋭利な刃にハラハラしながら主張することも大事なのかなって思う。昔は意見を相手に押し付けずにただ人の意見を聞くに徹することを美徳としていたから、そのころからすればとんだ大方向転換だけど。意見を主張することは結構大事なことらしい。

そういえば芸大以外の人間と話す機会があって、他校の音大ではどんな志で音楽をやっているのか純粋に楽しみに会ったつもりだったけれど、本当に酷くて心底心外だったことを思い出した。会った瞬間から顔中心に全体的に曇っていたからこれは期待できないなとは思っていたけど、残念な意味で芸大にはいないタイプの人間で、「きっと今までチヤホヤされながら育ってきたんだろうな」とか考えた。のくせにカッコだけはつけたいみたいで自分で何も決められないからか声も小さいのに見栄だけは張れる余力があるらしい。もう関わらないと思うし向こうも私のこといよいよ嫌いになったと思うからもう言わないし、これ以上言ったらただのガミガミばあさんになっちゃうね。こわーい。

 

明日にはいろんな意味で元気になってたらいいのにな。

 

 

時空管制塔の従業員による睡眠操作妨害行為について

 

本格的にブラジル人になったようだ。体がまるで言うことを聞かない。実はちょっと時空が歪んでて、今はほんとは朝なんだけど、世界規模のドッキリに今私は試されているのだ。明日の朝になれば知らない誰かが私の部屋にマイクと「ドッキリ大成功」の看板を携えて乱入してくるに違いない。一流のリアクションを磨いとかないといけないかな。アホ面晒して吃驚するリアクションの神になる。ここまで妄想を膨らませてから途端にめんどくさくなったからやっぱりドッキリは来るな。

ゴールデンウィークはもうそれはゴールデン過ぎるぐらいにゴールデンな日々を送ってしまったがために、明日から戻ってくる日常が色褪せて見える。でもセピア色の毎日がやっぱり好きで、家にいる時は早く外に出たいと思うのに出た瞬間家に帰りたくなる天邪鬼のような日々がやっぱり愛しい。

遂に夜、寝ながらクラシックが聞けなくなった。耳が冴えて頭も冴えて、もうブラームスとか聞き出したら徹夜を覚悟した方がいいぐらいには寝れない。だけど、Spotifyにあるプレイリスト「ノスタルジック」にはほとんどブラームスドボルザークしかないし、なにそれノスタルジックの塊じゃん(笑)みたいなプレイリストは早々に焼き払ってしまわないと本当にブラジル人になってしまう。教職関係の授業は本当につまらない。つまらない物を「もしかしたらつまらないと感じるのは自分の感性が乏しいからなのかもしれない」と不安がってつまらなくならないように積極的姿勢で授業に臨むことさえめんどくさいぐらいにはつまらない。ブラジル人だから3限以降の授業は自動的に夜になる。先生の声は睡眠導入剤で、これ以上にないほどに条件は揃っているらしい。

寝る努力さえ地球の裏側に置いてきた今はこうしてガンガンにブルーライトを浴びせながらはてなブログを更新している醜態に自分でも完全に匙を投げていると分かっています。語彙力の低下に伴って女子高生のごとくスマホ片手に「まじだりぃ」というあれと多分やってること変わらない。

 

 

 

 

 

思春期を迎えた青年が通過儀礼のように感じる「人生とは何か」というあまりに普遍的過ぎる疑問は、言葉にすること自体あまりの薄っぺらさに危険性を孕むものではあるが、何か一度本物とやらに近付きたいと思ってしまった人間が可愛そうなことに終わりまで見続けさせられる拷問のような問であることには間違いない。

僕たちはもう当たり前のように「音楽」というある意味恣意的に名付けてしまったこの意味の分からない概念に対して何の違和感もなくその空気に触れることが出来てしまう次元には来ていた。考古学のような、間違い探しのような、だまし絵のような、職人技のような、恋心のような、ちょっぴり切なくなるような、正解がないような、そして「人生」のような。

 

「あの先には海が見えるらしいぜ」

そんな確証もないような噂を信じて地平線へと歩みを進めることは、コンパスを持たずに砂漠を浮遊する恐ろしさとか、言葉では推し量れない怖さと行き着いた先に何が見えるのか分からない不安と、ただまっすぐに早く太陽に煌めく海を見たい欲求と、もうなんだか分からないぐらいごちゃまぜだ。

きっと今度こそ、と勇でて挑戦するものの案外パズルのピースは揃っていなかったようで、そんな自分を卑下するわけでもなく、しかし悔しさを滲ませた涙でコンパスが見えなくなるこんな夜でも世界は許してくれるだろうか。

気付かない方が幸せなことがあるって言うけれど、どうしても今だけは気付かないことの方がよっぽどの不幸だと声を大にして言いたい。気付いたら幸せじゃないかもしれないけれど、そんな不幸に喘ぎ苦しみながらでも海を探しに行きたい。せめて今だけはそれが幸せなんだと信じていたい。

はやく、はやくその純度の高い炎で身を焦がしてほしい。

 

 

帰り道の考え事

使い古したプレイリストを今度こそ履き潰すように耳に注ぎ続ける。今は晴れているけれど、なんとなくくもりの気分だったからプレイリスト「くもり」をチョイス。帰り道には東の空に赤い瞳がにんまりと笑っている。「おいおい、今日も気持ちわりーぞ。」と茶化しながら感情の暖かい海に身をうずめていく。重たい何かを大切に大切に磨り減らしながら、周回遅れの日々を辻褄合わせのために早めることをもうやめようと思った。

今日も京葉線で揺られながら、だけど先人たちの言葉遣いの巧みさにもう心を動かされることはない。椎名林檎ガリレオガリレイもどうしてこんなに自分の内側を気持ちよく擦っていくのだろう、と興奮していたつい最近の帰り道はもうどこにもない。ブラームスも、シューベルトも、プーランクも響かない。好きだった曲が好きじゃなくなった時の喪失感への対処法を僕はまだ知らない。心の穴はまたいつか新しい代替物で置き換えられるのだろうか。薄情だ。

最近降りる駅の三つ手前で眠気が襲ってくるのに、眠りについたとたん歩くことを強制されるこのくそったれなサイクルは拷問か何かか。そんなことなら一瞬の甘えさえ許されない眠気覚ましをここに用意してくれよ。舞浜から乗ってきた隣のカップルの会話に仕方ないから聞き耳を立てる。我ながら趣味が悪いが僕の眠気覚ましのために少しの人々が犠牲になること、少し申し訳ないと思いながら、でも結局は眠すぎてとりあえず女の方の声がうるさいかったなという情報量しか頭が受け付けない。そう言えば今日の5限も製本を終えたらさっさと寝てしまってたことを思い出した。講師の声が若干花澤香菜に似ていることしか情報量がない。

明日のために荷造りすることを思い出して、途端に歩くスピードが落ちる。このスピードはどの曲のアンダンテに当たるのだろうと考えながら靴擦れの痛みを一つ、二つ数えて階段を降りる。

荷造りは得意ではない。

 

 

 

ラブレター

 

京葉線と近くにあるマルエツで日常を感じられる特殊能力のおかげでまた一から頑張ろうと思える四月の終わり。

恐らくこれが核心なのだろうという予測は色んなアプローチを元に段々その姿を明るみに晒していく。

恩着せがましく押し付けてくる「ありがとう」という世界の感謝の気持ちとは違った、どこか自発的に心のなかにふわりと浮かぶ「ありがとう」という気持ちは、出来たらいつまでも忘れたくない。作曲家に対して思う「君が生まれてきてくれてありがとう」とか「そこに存在してくれてありがとう」とかいう気持ちはもしかしたら言葉にしない方が美しいのかも知れないけれど、何かどうしても伝えずにはいられないある種の恋愛感情的な熱量が内側にある。昔の偉人たちに恋をする。その全てが愛しくなる。その人の体の形でもある音程の幅だとか、表示記号一つで訴えかける君の気持ちだとか、全部を優しく抱擁してキスしたくなる。そして何より、こんな感情を教えてくれた君に心からのありがとうを伝えたいんだ。

 

 

もし今、自分が本物を追い求めたくて無我夢中で振り切っていたとして、でもそれってただの猿真似だったんじゃないかと不意に突きつけられる刃は、夜道を一人で歩くときに頬を掠める北風と似ている。

 

サンダルの下に靴下を履くこのおかしな世界へ

人は一人で生きていけないね。大丈夫、僕が君のそばにいるよ。はいはい。

 

人間らしさをどこか置いてきてしまった。スマホ片手に「ははは、愉快愉快」とのけぞり笑う。その姿に世界のいびつさを覚え、言葉を失う。自分の思想に価値を持ちすぎた君はもう後戻りはできなくて、もうそれが嫌で嫌で、大好きだったその魅力に今では吐き気すら感じるほどに私も後戻りできなくなっているなう。

じゃあなんなんだ、死ぬのかお前。と言われてしまえば私も「ははは、愉快愉快」とグーグルで楽に死ねる方法を調べてのけぞり笑うのだろう。なんという矛盾。

もう悟ったふりをやめるならば楽になる。こんな傾きまくった世界で、もう傾きすぎてその角度こそが正しいものとされつつあるこの世界で。

緑化運動の盛りすぎで逆に不自然になった弁天堂。

蓮のない不忍池

大人の皮を被った街、中目黒。

美的センス(笑)という履物を無理に体に合わせる女たち。

暇さえあれば「抹茶」「パクチー」。もう一生食ってろ。

おしゃれは我慢だと拡声器でがなる東京。

 

自分がいつか何かに依存してしまうかもしれない怖さに歯の奥を震わせて、抗い続けることができなくなったその時を待っている。そして今も知らないだけで依存しているかもしれない。どのみち時限爆弾を抱えて奔走している。布団の中で思う革命家は死ねよ、って誰かが言ってた気がする。もうそのへんぐちゃぐちゃ。

 

ははは、愉快愉快。