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Le Nocturne

深淵を覗く時

ラブレター

 

京葉線と近くにあるマルエツで日常を感じられる特殊能力のおかげでまた一から頑張ろうと思える四月の終わり。

恐らくこれが核心なのだろうという予測は色んなアプローチを元に段々その姿を明るみに晒していく。

恩着せがましく押し付けてくる「ありがとう」という世界の感謝の気持ちとは違った、どこか自発的に心のなかにふわりと浮かぶ「ありがとう」という気持ちは、出来たらいつまでも忘れたくない。作曲家に対して思う「君が生まれてきてくれてありがとう」とか「そこに存在してくれてありがとう」とかいう気持ちはもしかしたら言葉にしない方が美しいのかも知れないけれど、何かどうしても伝えずにはいられないある種の恋愛感情的な熱量が内側にある。昔の偉人たちに恋をする。その全てが愛しくなる。その人の体の形でもある音程の幅だとか、表示記号一つで訴えかける君の気持ちだとか、全部を優しく抱擁してキスしたくなる。そして何より、こんな感情を教えてくれた君に心からのありがとうを伝えたいんだ。

 

 

もし今、自分が本物を追い求めたくて無我夢中で振り切っていたとして、でもそれってただの猿真似だったんじゃないかと不意に突きつけられる刃は、夜道を一人で歩くときに頬を掠める北風と似ている。

 

サンダルの下に靴下を履くこのおかしな世界へ

人は一人で生きていけないね。大丈夫、僕が君のそばにいるよ。はいはい。

今は雨が降っているけど大丈夫、明日には虹が見えるよ。はいはい。

人間らしさをどこか置いてきてしまった。スマホ片手に「ははは、愉快愉快」とのけぞり笑う。その姿に世界のいびつさを覚え、言葉を失う。自分の思想に価値を持ちすぎた君はもう後戻りはできなくて、もうそれが嫌で嫌で、大好きだったその魅力に今では吐き気すら感じるほどに私も後戻りできなくなっているなう。

じゃあなんなんだ、死ぬのかお前。と言われてしまえば私も「ははは、愉快愉快」とグーグルで楽に死ねる方法を調べてのけぞり笑うのだろう。なんという矛盾。

もう悟ったふりをやめるならば楽になる。こんな傾きまくった世界で、もう傾きすぎてその角度こそが正しいものとされつつあるこの世界で。

緑化運動の盛りすぎで逆に不自然になった弁天堂。

蓮のない不忍池

大人の皮を被った街、中目黒。

美的センス(笑)という履物を無理に体に合わせる女たち。

暇さえあれば「抹茶」「パクチー」。もう一生食ってろ。

おしゃれは我慢だと拡声器でがなる東京。

 

自分がいつか何かに依存してしまうかもしれない怖さに歯の奥を震わせて、抗い続けることができなくなったその時を待っている。そして今も知らないだけで依存しているかもしれない。どのみち時限爆弾を抱えて奔走している。布団の中で思う革命家は死ねよ、って誰かが言ってた気がする。もうそのへんぐちゃぐちゃ。

 

ははは、愉快愉快。

 

 

 

甘えと情け

心のなかで蠢く正体不明の靄に苛立ちを覚える。誰のせいでもないこの不快感は多分ワタシにしか手に取れない。

「今夜にはもう分かるよ。」という声に「そうだといいな。」と返事をしてみるも、本当はそうはならないでほしかったし、あわよくば一生当事者になることを拒み続けようと試みる。

自分のなかに生まれた性をもて余す。腫れ物に触るかのような戸惑いに、今まで気付かない振りをしてきたがタイムリミットが迫りつつあるようだ。

スカートをはく。化粧をする。ヒールをはく。隣に座る酒臭いオヤジとの身体的距離を計りながら腕の生暖かさに吐き気が倍増する。甘えるときに声が高くなるのが気持ち悪い。AVで喘ぐあの人達と同じ性別であること、生々しすぎて直視出来ない。多分いつでもそちら側へ行くことが出来るのが怖い。一人の人間になりたい。乱雑になったこの魂をただ束ね委ねるだけのために、利便性だけを重視したこの脳みそに。受け入れられない何かから絶え間なく逃げ続けるこの行為に億劫になる。

 

「みんなのこと、好きだよ。みんなもワタシのこと好きになってよ。でもそれ以上ワタシに近付かないでね。」だなんて、ふざけたことを叫びながらビリビリに引き裂く。

 

多分気付けばワタシは一人になってて、随分遠いところまで来たものだな、と。隣のオヤジはいつの間にかいない。確かな酒の香りを残しながら。白い目をした人間。

 自分のなかからなるべく女性性を消す。中性になっていく。

ワタシのこと、愛して、愛さないで、というこの感情に名前を。

 

 

幸せと死の二項対立

最近、自分が幸せな時の思考を言語化することの難しさを感じます。苦しい佳境に立たされたときは何とかして言葉という形態をもって捻りだそうと出来ますが、幸福な感情を表に出すときの表現方法がそう言えばわからないなと。どんな風に幸せですか、とか、いやいや幸せは幸せでしかないでしょう、と最高に頭の悪い回答しか出来ない気がしますし、まあなんというか、要するに少しの退屈と課題の山積している日常がすごく幸せですってことが言いたいだけなんですけど。

でも今回の幸せの類は、何かいいことがあった時のそれとは違って、今日も一日ありがとうみたいな、教会の「今日のことば」にでも掲げられていそうな感情の一つで。その気になればいつでも綺麗ごとで陳腐なものへと昇華出来そうなこの感情に名前を。言葉は常に嘘を孕んでいますから。

北朝鮮のミサイルで急に冷たいナイフを首に突き付けられたような怖さを感じて、そう言えば去年の今頃は始めたばかりの一人暮らしで熊本などの立て続けに起こる地震に怯える日々が続いたことを思い出します。四月はなんだ、急に死ぬことを自覚させる月なのか。青い鳩にみんな思いの節を垂れ流して、死ぬのは嫌だのこんな世界滅べばいいだの、好き勝手なことを申しております。残念ながら私はまだ生きていたい身分なもので、死ぬときは家族と一緒が良いよなぁとか、今日最後に家族と交わした会話を思い出したり、急に切なくなったりします。

 でも世の中の多くの人は現実味の無さげな噺には興味もないみたいで、目の前の女子高生は好きな男の子の話に花を咲かせ、サラリーマンたちは新年度の会計が一段落したことに安堵の表情を見せ、空にはちぎったような柔らかい雲が大きな青に浮かんでいるだけで、日常が本当にそこにあります。そこに。

死ぬ宣告がないこと、いつ命が終わるのか分からないように設計してくれた神様には憎まれ口の一つでも叩いてやりたいけれど、やっぱりそんな宣告いらないと思いました。誰かが誰かをそっと思う気持ちがいつまでもいつまでも続きますように。

それにしても

死ぬことを考えるのを止めた途端にこれだから、やっぱり何かしら神様からいつ死ぬか分からないこの世界に少しばかり心の準備をしておけよ、と言われている気分です。

 

今日もたくさんの人が死んで、遠い国で爆撃に巻き込まれて死んだ子どもを思って、なんでわたしじゃなかったのかなって思って、海を見て、海に向かって祈って、海に向かって弾いて、それでも尚、私にはまだ「死」を取り扱う資格は本当にないと思ったから暫くは海を底を見るのをやめようと思う。

 

また明日、運良く生きていればその時にでも。

唯一無二

彼の世行きの列車には人の顔が見えない乗客。影を色濃くした夕暮れは死んだときに一つだけ持っていきたいものを淡く照らしている。「家族葬」「愛のあるお葬式」だなんて文言が死をちらつかせて精神を削り取る。

 

その純真無垢な仮面のしたに覗く眼は何色なのだろう。世界で唯一無二と思える眼は果たしていくつ?

「君は僕の太陽だ!」って、その口から零れた言葉は途端に命の灯を消す。君のなかに太陽はいくつあるんだい?

あなたは暫く会わないうちに私を忘れて、名前も忘れて、声も忘れて、いっそこのまま首を締めても構わない。あなたという唯一無二はこの世に1つしかないのに、唯一無二だと思える存在はあなた以外にも沢山いるの、この世界。

私はそれを責めない。唯一無二が沢山転がっているこの世界のこと、一瞥しない。

いつかそのお別れが来たとして、私は丁寧に唯一無二の骨を拾ってあげるよ。私もすぐそちらに向かいますから。

 

生きるってどういうこと?

 

島国

午前2時。

線路の近くにあるこの家に、本物の静寂が訪れる。

本日の業務を終えたJR東日本は沈黙を守り、逆に私はオーディオから音を引き出し始める。

鼻歌まじりに音に合わせて音高を揃えたら、母親にご機嫌ね、と部屋を覗かれる。

どうして涙と海が同じ塩味なんだろうね、って聞いてみた。

海から生まれたからに決まってるじゃない、って即答されたから、なんだか安心した。

次は九十九里の海を見に行こうと思って電気を消した。

おやすみなさい、海。

 

限界突破

 

日常のなかにある幸福や怒りや楽しみや悲しみは、言葉にならずに空を切る。

もやっと生まれてはもやっと死んでいき、何かを手中に留めようと悪あがきをしてみるけれど、結局忘れてしまうようなことならば手の内に納めたところでそれは大して意味を持たなくなる。

昔あなたが「僕らはもう言語化出来ない位置にまで来てしまっているんだ」と言った意味がやっと分かる。したところで意味がないことも。

色んな角度から見た自分。情報を元に私と言う存在の焦点が当たって見えてくる。

私って誰なんだという哲学的なそれではなく、文字通り自分ってこんなやつなんだな、ぐらいの軽いそれで。

その世界に入ることで、自分が凡庸であることを知って、なんと無力なんだと嘆く時間がどうしても必要だったと思う。

昔の私、今の私はスーパーマンにはなれなかったよ。でも、無力さと引き換えに今こうして自分の好きを磨いて楽しめている環境が本当に恵まれたことだったんだよっていずれ分かるようになるよ。

「今日も1日、ありがとう」だなんて、ありふれて陳腐な言葉かもしれないけれど、この言葉こそ世界の鍵を握るものなのかもしれない、って信じざるを得ない熱量がここにはあるよ。

 

 

 

桜の開花宣言が東京で言われた頃。僕は彼女と町を歩く。

堰を切ったようにして咲き乱れ始めた花たちの賑わいは人を呼び、鳥を呼び、そうして春を呼ぶ。空気を吸っては吐いてを繰り返して桃色の息吹を体に満たしていく。

 

「今日も海を見に行こう」

彼女ははその短い髪の毛を春風に揺らして僕を一瞥してから微笑んだ。春に合わせた淡いピンクのスカートが風に乗ってふわりと靡く様で、昔ある春の日に感じた昼下がりの優しさを思い出す。時間の緩やかな流れが「ここにいても良いんだよ」と肯定してくれるような。

 

「昔ね、私の町に大きな桜の木があったんだ。それはね、夜の方が美しくてね。凛としてるのに色気があるんだ。」

物憂げに語る彼女の表情は、夜桜そのもので、時折動く睫毛の瞬きが夜桜の花びらが儚く落ち行く様を模しているようだ。

「ずっと、私が生まれる前からそのおばあちゃんみたいな桜の木はそこにいて。きっと道に行き交う人々皆のことを秘かに思い続けていたと思う。夏には青葉を、秋には紅葉を、冬には雪化粧して、そして春には優しい愛をくれるの。」

 

きっと彼女のなかでは桜は神様みたいな存在なのかもしれない。忙しなく生きる僕たちはいつも大事な何かをすぐ忘れてしまうけれど、でも桜は365日を巡って毎年一回、ここに帰っておいでと囁いてくれる。沈黙のなかでしか通いあえないこの会話はまるで神との対話で、どこかバッハを奏でるときの感覚に似ているような気がした。

 

「私はね、これからも私の後に生きる何万もの人々があの桜を見て生きていてほしいって思ってる。大切な誰かと会えない時に思う、今頃元気にしているかなっていう気持ちみたいな。そんな誰かが誰かの小さな幸せを願う心がずっと、ずっと続いてほしいんだ。それってすごく尊いものじゃない?」

 

あまりにもパステルカラーに満ちた彼女がこちらに帰ってこないのではないかと心配になった僕はつい「君はその春の優しさが時々嫌にはならないのかい?」と躊躇いを込めて尋ねる。

 

「嫌になってしまうこともあるけれど、でも私の居場所はここなんだなっていつも思うの。本当の自分がどこにいるのか分からなくて、自分で自分を励ましたとしてもただの強がりだったらどうしよう、とか思ってしまうの。でも、桜が、私の良いところも悪いところもまるっとくるんでそれが私なんだよ、って教えてくれる気がするの。本当は私が、君がここにいるだけでそれだけで価値があることなのにね。私たち、忙しすぎるから。」

 

透明な風が鳴りを潜め、豊かな実りある孤独が二人を包んでいく。

「ねぇ、二人だけで誰もいない海を見に行こうよ。」

 

町全体がまるで淡い桃色のベールに包まれたような日々がより一層僕たち二人をノスタルジックな境地へと誘う。

海沿いの街道には桜が等間隔に並び、日曜午後三時の月島駅にささやかな愛を届けてくれる。

 

 

大学生の憂鬱

元来、特別な力というものにはある程度の憧れを抱いていた。小さなころ見た夢に自分で興奮を覚え、その通りにはならなくとも同じような感覚が味わえたらな、という妄想は好きだった。自分の夢に感動していたあの頃の私は単に自慰行為を繰り返していただけだったのだろうか。

そして今、あの日見た夢が確実に温度を失いながら薄れていくような感覚がする。

自分は思ったよりもつまらない人間で、スーパーマンみたいな誰かを救うような力はなかったし、上野公園の公園出口に花見のために列を成すあり得ない人の数にイライラを隠せないような小さい人間だし、この死ぬほどつまらない現状に億劫になっている自分の愚かさにも戸惑いを隠せない。やるべきことが山積している現状からは目を逸らして、死ぬほどつまらない日々を死ぬほど楽しい日々に塗り替えられるのは自分しかいないのに。

夢は叶う、というのは夢が叶った人間がメディアの前で「私こそは夢が叶いました」というから夢は叶うという文言が世の真理みたいな風潮が構成されてしまうのであって、その裏側に夢は叶わないものなのだと敗北していった人間がきっとごまんといる。夢は叶う、よりも自分が世の中にあるある種の役割として歯車になる、という意識のほうがきっと生きやすくなるし、それが真理なのかもしれない。知らんけどな。

明日から授業が始まって、また自分の不甲斐なさとどうしようもできない愚かさに手が付けられなくなる日常が始まるような気がする。そうしていつものように「丁寧に今を積み重ねよう」と、どこかの人生How to本にでも書いてそうな言葉に自分を当てはめて生きていくと思う。いつになったら夢は叶うという言葉の呪縛から逃れることができるのだろうか。

 

 

茶番劇

社会人・大人・24歳・女

よく涙を流す。涙の価値が低い。女優並みにいつでも泣けそうな気がする。女優の涙の価値が低い訳ではない。

 

悲しいから泣くんじゃない。何も考えてなくても泣く。急に心がきゅーっと苦しくなる。小学生ぐらいの女子がいきなり走り出すあの感じ。心の内側にきゅーっとエネルギーが向かったら走り出さずにはいられない。これ、あんまり分かってもらえないけど。

 

反りが合わない上司に関して。反りが合わないのは私の思慮の浅はかさが原因なのかもしれない。理解する感性がないってすぐ自分のせいにする。嫌いなものを嫌いと言うのは疲れる。じゃあ嫌いと言うのを止める。じゃあ自分が何が好きで何が嫌いか分からなくなる。アホらしい。

 

この前目ばちこが痛いです、って言ったら通じなかった。目ばちこ、どうも方言らしい。どうもどうも関西から東京へやって来ました、24歳・女です、特技は泣くこと、以降お見知りおきを。おおきに~。

 

 

京葉線

あたしは今日も潮の風をほっぺたで感じて、電車に乗り込む。身体に馴染んだ制服はあたしが女子高生であることを保障してくれる。美しさと若さと正しさが等しくあると思っているうちが花なのよね。ほら、みんなあたしを見てよ。愛してよ。

京葉線は東京と千葉を結ぶ車線で、海沿いを走る赤い車体は眩しすぎず廃れすぎずといい加減の赤みで、あたしはなかなか気に入っている。でも海沿いの強い風に煽られるのが苦手なのか、ちょっとの強風で止まってしまう乙女のような電車であり、毎朝のごとく止まる総武線や常磐線ほどではないにしろ結構やわっちい電車。まるで同じクラスの隣の席のあの子みたい。

総武線よりも常磐線よりも海沿いに走るので海がよく見える。行きしなはよく海を眺めている。海がちゃんと見えるように上りのときは右手の方に座っている。海の背景は工業地帯だけど、千葉のこういった東京にはなれきれないどんくささみたいなものが好きだし、可愛いなって思う。

千葉から東京になった瞬間ってあるじゃない。町並みとか見てて思う。あの、どことも交わることができない境目が時々、夕方みたいに見えるときがあるんだよね。光と影の境目みたいな。サティの音楽みたいな。明るいのも暗いのも嫌い。教室で友達と誰かの噂話で「きゃはは」って笑うのも楽しいけどね。あたしはずっと夕方みたいな瞬間が続けば良いなって思うの。まあすぐに消えてなくなっちゃうから好きなんだけどね、夕方。夏の1日が終わった後の日曜日の夕方に「ああ、今日も楽しかったな」ってアイスを食べてソファーに沈んでいくの、好きだったな。

スカートがフワッと風に乗って翻している感覚が好き。もうだめ、もうだめ、何かが見え透いてしまうようなダメなあたしもちゃんと愛して。

 

宮崎・青島

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青島に行ってから、左目だけ涙が流れ続けるという特異体質になってしまった。心当たりと言えば、その前日にこなした本番で少々厚化粧をしたときに左目に集中的にアイシャドーが入ったか、はたまた青島の海水に触れた手で目を掻いたか。後者だとしたら私の左目には今多量の海の微生物が住んでいるのかもしれない。怖いなあ。

一人の海が好きだ。暇さえあれば海に行きたがるから、やっぱり人間は海から生まれたことに頷ける。自分の目から零れる液体とこの地球を覆っている液体が何故同じ塩味なのか、子供ながらに抱いていた謎はいまだ解明されない。液体の成分の話ではなく。水の戯れを長いこと見ていると自分の意志では動けないような錯覚に陥る。それはとても心地よいたゆたいで、ここに帰ってきたという気がする。昔お母さんにだっこしてもらってゆっくり上下に揺られていたからかもしれない。海は空の鏡みたいだ。空の色に限りなく近い青みを映しているように見える。夕焼けのときは海は赤色になり、夜は深淵となって黒に染まる。深淵を覗くとき、また深淵もこちらを覗いているのだ。海を見るとき、東京駅で一人雑踏に紛れながらも世界を無音にしたあの異世界な感覚とそれはどこか似ているような感じがして面白い。完全に「ああ、一人だ」という心地よさと生きている証はただ大切な人にだけ伝わればいいなという想いで一人海岸を歩く。

「私はここに居るよ。私はここに居るよ。」

 

大切な人。

きっかけは何だったんだろう。確か夏目漱石の『夢十夜』だった気がする。本当に笑ってしまうような些細なきっかけ。あの世界観に魅了された私たちはいつしか価値観も考え方も、何を考えているのかも分かっていた。そんな人、もうきっと出会えないのかもしれない。そう確信できてしまうぐらいには私たちは何かで結ばれている。

そんな私たちが男女の関係になるには最早時間の問題だってこと、言わずとも分かっていた。お互い、なんとなく分かっていたことも分かっていた。

初恋ともいえる最初に本気に好きになった人は私よりも感性が優れていた。付き合えないだろうと心のどこかで考えながらも考え方が、言葉が好きだったから色んな話を聞いていた。彼の話には何でも笑っていたし、楽しませてもらったし、だけど最後の最後まで何かお返しできるものもなくいつも私が貰ってばっかだった。彼の中で一番好きだった話があった。ラヴェルという作曲家の話だ。彼の音楽は孤独な夜を乗り越えるための音楽だって言ってた。なんて色気のあることを言うのだろうと感心した。その日から私の中でラヴェルは孤独な夜を乗り越えるための音楽になった。

そしてあろうことか、私たちはその孤独な夜を乗り越えるための音楽で体温を分かち、キスをした。私はあなたの思想を踏みにじって、愛していた過去の私でさえ越えてみせて、それは罪悪感と、残念ながら同時に背徳感みたいなものも感じた。その瞬間だけは、すべて壊れてしまえばいいと思った。

あの日の夜が、ただの寂しさを紛らわすための道具にならないように、ただの性欲だったって言われないように。最低な女を演じることが今の自分にできる何かなのかもしれない、とか不埒なことを考えては現実に戻る。大人になるってどういうことなのだろう。何で大切な人ばかり傷つけてしまうのだろう。多分、肝心なことが言えない私たちは手紙を書きあって、それ以外ではお互いの気持ちいいところを突きあうような会話で空気を満たして。傷つくことを恐れて何かぎくしゃくした空気が加速する。

付き合うには何かあと一押し足りないこの感情は単に私のわがままなのか。条件は揃ったのに。

 

出会うには早すぎたのかもしれない。

 

 

宮崎・県立劇場にて

どんな舞台であれ終わってしまえばあっけなかったの一言に尽きることが多い。技術にも体の使い方にも音楽にかける情熱にも偏りすぎない職人的なバランスのとり方が要求されているような気がした。終わってしまえばまた、私は忘れてしまうのだろうか。忘れたくない。

課題なんて上げだしたらキリがないのだけど、私は傾向として今回自分ができたことに関しての振り返りをあまりしてこなかったように思う。自分を責めることはある意味一番簡単で流されやすい行為なのかもしれない。これが出来た、あれが出来なかった、とちゃんと分けることの如何に難しいことか。当たり前のことを当たり前に言うことの如何に難しいことか。

 

特別何か宝物を見つけたような目新しさとかはなく、ただ淡々とこなしてきた練習が若干の緊張を伴いながら発表されたような演奏。あまり満足いかない。(必ずしも自分の満足感と観客の満足感が一致するものとは限らないという話はまた今度)。どんどん加速を進める人々の中に共通する何かを探し求めてはああかもしれない、こうかもしれないと考える。結局のところそれは何の意味のなさないものだけど、そんな使い捨てのような感情さえも使い捨てることができないくらいには今の私には裁量することがままならない。

でもそんななかで、最後に何か救われたような気持になるときいつもそこには「好き」という感情が存在していて、少し人に言うのは恥ずかしくて憚れるようなこの感情は何かを前に進めるには欠かせないものだったと知る。宮崎駿が引退会見の時に引用した「この世は生きるに値する」というメッセージは彼ら映画関係者だけでなく、芸術という枠組みの中で生きる皆がきっと知りたがり、皆がそうであると信じながら死んでいった者たちだ。

 

それはさておき現実的なお話が待ち構えているのも事実である。一流と呼ばれるプレイヤーの多くは何か外してはいけない筋みたいなものを押さえながらも遊び心を程よく散りばめたもので、簡単に言えばセンスが良いだの感性が素晴らしいだのそういう風に一言で言えてしまうものだ。しかし、料理に塩をふりかけて何故おいしいのかと言うと料理がおいしいから塩がさらに引き立たせるのであって、塩は料理には成りえないのだ。そんな料理と味付けの関係を思わせるような演奏は、どこか美味しいと感じたり、色が見えたり、気象現象の総体として見える空や雲がふわっと香る瞬間がある。

 

とりあえずの振り返りはここまで。