C'est la vie

新大陸の湖畔

 

ふとした瞬間に思ったことなので、手短に書きます。

 

 

高校の時にお世話になった先輩が私が受験の頃に病気で死にました。

絵に描いたような、いつも笑顔の絶えない素敵な人でした。

受験のためにお葬式には行けませんでした。

兎に角早く電報を打ったのは覚えてます。

 

お別れをしなかったから、その人が死んだなんて実感も湧きません。

でも、電車に一人揺られていて分かりました。

ああ、死んだんだな。もう会えないんだ。

 

東京駅ですれ違う人達の事を想う。人生でもう二度とは会わない数々の人達のこと、思いを馳せて見るけれど、会わない。会わないと死んでいるも同然。会わない。

 

君は生きている。また明日も会える。すごいことだ。

 

 

 

光の住む街

 

新しい人とか物とかに巡り合う時は本当に胸が高鳴る。今からどんな人に会えるんだろうと期待することは、私にとっての希望だ。そんなときに、ふとした瞬間に自分が過去にがんじがらめに捕らわれていたことに気付いて、心の中で大変だったね大丈夫だよ、と声をかける。

 

古くて、長くて、希望が見出だせないものは全部セピア色に見えてくる。本能的に私の居場所はここじゃないよってサインをどこかで受信してる。ピピピ…ピピピ…

 

明日にはきっと、きっと、と思って眠る夜がこんなにも暖かくて、こんなにも幸せなことなんだって大人になって分かることなのかもしれない。

 

 

日常

 

電車のなかでの人間観察が好きだけど、知らない人の顔をマジマジと見るのはお互いに居たたまれないような気持ちになるので、盗み見る要領で車内の人間を観察する。

隣の人の洗剤の匂い、くたびれた鞄、ディズニーのお土産袋、細いピンヒール、女子高生のスカート。

今日も電車は日常を運んでいる。

 

 FaureのAu bord de l'eauが好きで、上手く発音も出来ないし上手く歌えもしないけど、煙のたゆたいとか、時が過ぎること、夢が儚く醒めること、これらの描写が心に深く棘のように刺さる。ポッケに手を突っ込み、ちょっと不機嫌そうな前髪で街を闊歩する冬の夕暮れって気持ちになる。この気持ちは決して日常ではないけれど、目の前で行われる日常とが更なるコントラストを生んで、私という身体が日常という風呂桶にぽよんとたゆたっているような気持ちになる。気持ちいい。ああ、揺られている。

どの一片を切り取ってもそれは日常で、その中で誰かがくしゃみをしたり、急ブレーキによろめいたりすることにちょっとした非日常を感じる。そういうドラマは心のどこかで求めている何かであって、それは一瞬ちょっとだけベートーヴェンを弾いてる気分にもなる。

そんなことを目の前のおじさんを見ながら考えていると最寄り駅に着いた。

 

 

Someone from the past

 

明け方によく見る夢は奥底で埋まっている私の姿を写す鏡みたい。

一心不乱に楽器を弾いている夢はきっと誰かを求めているからなのか。

例え衣装がはだけようと、足が挫けてしまえど、身体自体が脱げてしまっても。

誰かが確実に語りかけている。雨を踏む夜の上野公園で、えもいわれぬ郷愁に眩暈を覚える。

雨音に紛れて木霊する声というのは、きっと勘違いじゃなくて、昔の私の声なのだ。

後ろを顧みなかった5才の私がいつまでも私のどこかで命の火を燃やし続けている。

 

 

ランドセルと革靴

電車に乗る。

 

私がいたすぐそこが遥か向こうに離れていく。この道は海をぐるっと囲んだ。今見ていた景色がゆらゆらと方向を変えて違う世界に変わっていく。壊れたビンが光を吸ってきらきらと輝いていて、それを宝石みたいだねって言い合ってはしゃいだ。

「18日ってなんの数字だか知ってるか?二人の結婚記念日なんだ」

 

って認知症の進んだ祖父が祖母の居ないところで私に誇らしげに言った。

 

「昔ね、絵手紙でお父さんに日めくりカレンダー書いてあげたのよ。二人にしか分からないメッセージがいっぱいあるのよ。」

 

っていつまでもお茶目な祖母が優しい笑みを浮かべて私だけに喋る。

 

こんな些細な誰かを想う気持ちが細くも、永遠に続けば良いなと思った。本当に願った。

 

 

過去

 

チャットモンチーを聞いて

 

好きな人と話して

 

報われない夜を思う

 

電車のなか。

 

 

 

 

海の向こう側

銀座を歩くと誰も知らない私のことなんか、と口ずさむ。

新宿を歩くと、そこにはギターを片手に豪雨を叫ぶ少女がいる。

君の影が揺れている 今日限り会える日時計 いつもの夏がすぐそこにある証

まだ見ぬ歌舞伎町には女になった私がそこにいる。

 

沢山の憧れを追いかけて、近付いたと思う度私は自分の皮膚に付いたメッキを丁寧に剥がす作業を強いられるのです。不純物を取り除くかのように。純度の高い夏が終わり、深まりの秋が始まります。

 

 盛者必衰をいつも考えています。栄えあるものは必ず終わりを見つめているのです。

きっと夏の純度はいつ訪れるか分からない終わりに怯えながら生きていました。

でも今なら、終わりが必ずあるから今を生きようと思えるのです。

今なら潔く終わりを迎えられます。だから、今が際立ってきます。そう思わせてくれた貴方がいるのです。

 

夕日を映す海を見たことがありますか?

段々のっとりと海の向こうに落ちていく夕陽に比例するかのように、海の鏡に映る煌めきは色を濃くしていきます。

一つとして同じ型にはならないけれど、その燃えるような煌めきが、あの絵に似ているのです。

モネが最期に残した色はなんだと思います?

あんな、夕日の光を丁寧に閉じ込めたような海の色をしていました。赤いんです。もう死ぬ星のような色なのです。あの色は、きっと、人が生きた暁に見る色なんだと私、信じています。

 

そうして、地平線に隠れた光のおかげで辺りは急に闇を纏い始めます。終わりは突然やって来ますから。

 

 

青い。青い。まだ青い私。

 

 もうすぐ、誰にも会えない、一番近いあなたでさえ会えない秋が来ます。

 

太陽フレアの恩恵

 

太陽フレアのせいで世の中の多くの人が上手くいかない物事を太陽フレアのせいにしてる。私は今日も太陽フレア関係なしに空振りしてる。

 

太陽フレアが関係あるのかはしらないけど、大きな地震が起こって、なるほど太陽がちょっと本気を出せば私たちはいつでも死ねる。

人間今日やったことが全てですっての、今なら心臓の真ん中をチクチク差してきて分かる。なかなか重くて動かない自分の中心を毎日毎日ちょっとずつ動かしていく。重い石像みたい。

重たいよー、重たいよーって感じてる自分はでもなんだか大きな流れで見たらちっぽけで、太陽フレアちょっとで挫けちゃうぐらいにはちっぽけで、家族のこととかで悩むのも、そんなこともきっとちっぽけなんだろうな。

 

 

言の葉のちぎり

 

前よりちょっと言葉を紡ぐのが下手になった。

 

本を読むと不思議な気持ちになる。

 

一緒のようで決して交わらない言葉と感覚。

 

言語化不可能。

 

大好きだった君が変わっていく。

 

そんなに好きじゃなくなってくる。

 

もっと僕らは、言葉よりも

 

愛に目を向けるべきだった。

 

言葉の切れ端で滲み出るパステルカラーの愛が

 

掠れた声をあげている。

 

ここにいるよ、ここにいるよ

 

ごめんね。

 

 

 

告白

 


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夕方なのに世界が青い。ああ、まだ夏だなって思った。

酷く目眩がする。遠くから何かがやってくる。雲間を縫った光のカーテンと、それを映す青い血が底を満たしていく。

幾千もの点が線になって面になって広がりをみせるこの海が、まるで僕らの音楽のようだ。

ひとつの場所に留まることで腐りそうになる自分を何とかして外に連れ出さなきゃと思って自転車を無我夢中で漕いだ。

後から思うと全てが図られたように何か起こっていると感じるのは最早必然であって、必然で埋め尽くされた海の中に身を投げてみたい。自分の中に流れる水が、それらがやがて海へと繋がる瞬間が、一時として枯れないように大事に水源を育てていく。

この人に会うために、今日を生きてきたんだと思えることは海を見ることと一緒で、そんな君といつか海を見に行けたらなって僕は思うんだ。

 

 

ワタクシはキノウのヨル

 

小学校の頃になかば強制的につけられていた日記を掘り起こす。よくよく読んでみれば、嫌々で書かされている空気が文字全体から浮かび上がってくる。何かを通り越してもはや苦笑いしてしまうくらいには、昔から本質的な何かは残念ながら変わっていない。自己嫌悪と周囲の顔色で形成されていったこのワタクシが、本当の心の奥底に眠っていた感情を掘り起こすには何かの力を借りねばならないようだ。

文末が決まって「楽しかったです」と「美味しかったです」で締められる数々の日記はある意味奇妙で恐ろしい。感情の欠如とでも言えそうで、でもよく読むとその裏側が見えてくるそれは筆圧や文字の乱雑さからも浮かび上がってきた。本当のことを言えない性分は小2のころから健在だ。欠如ではない、痛みに身を晒す勇気のない子どもだ。

 

どうせ生まれてくるなら、自分のことが大好きだったら良かったのに。

 

つまらない子どもだ。

 

ずっと涼しい夏が続いて、どうしようもなく秋の予感を感じざるを得ない。

 

秋。

 

あのしんどくて、でも豊かで贅沢だった孤独な秋が始まる。秋に生まれてきっと秋に死んでいく気がする。

 

 

 

Op.118 No.2 Intermezzo 100年前のあなたに敬意を込めて

 

何かを書き留めないと手から零れそうで怖かったあの日々から、「忙しさ」を理由にそれともおさらば出来そう。大事なことだけちゃんと淘汰されていくこのからだの中で、全てが繋がって網目模様に広がっていく。色んな柵からちょっとだけ抜け出せた日々は本当に色付いて綺麗で、君とどこまでも行けそうだ。

月明かりがあんなに明るいなんて思わなかった。うっすらに照らされる君の横顔が綺麗で、優しい目をしていた。空気にも音があることがわかった。どこから聞こえる音もみんな「意思」があって、心が暖かくなった。意識の及ばない音なんてどこにもなくて、静かに始まっては静かに終わる。それが集まって波みたいになって、自然界のありとあらゆる音がアンサンブルのように聞こえてくる。ここに帰りたい。

 

 

やっほー、元気?っていうぐらい柔らかな挨拶でアンサンブルが深まっていく。みんな誰かを求めて生きていて、誰一人として孤独じゃない気がした。

完璧主義の後ろ指を指されるのが怖い臆病なあの子は、沢山の人から愛を貰って今成長しようとしています。どうか、あなたがそこに居てくれるだけで私は救われるんだよって伝わりますように。こんな私だけど、また沢山のキスをください。そしていつか、あなたがそこにいるだけで良いんだよって抱きしめてください。

 

素敵な夜を。

 

 

興味深い話

 

作曲家の精神が宿る譜面の、その音たちを浮かび上がらせて弾く音楽はやはり作曲家のものであり、僕ら演奏家は完全なる媒介に過ぎない。

いや果たしてそうなのだろうか。

作曲家のものでもあり、だがしかし、一旦は演奏家自身の体の中に巡らせて出したその音楽は、同時に演奏家のものでもあるのではないか。だから、誰かの演奏を聞いて素晴らしいと感じさせる力は作曲家のものだけでなく、演奏家本人の力でもあるのだということ。

 

とても興味深い議論で、だけど二人の言っていることは真逆のようで全く一緒だった。

 

あなたには分かるかしら?

 

 

いただきます

いつの日からか、ご飯を一人で食べれなくなった。食べれるけれど、食べながらどうしても寂しい気持ちでいっぱいになった。

「前はこんな風なことはなかったのになぁ。」

と独り言をぼやいて、その音でさえ寂しく感じる。

いつからこんなに弱くなったのかも分からなくて、でもやっと最近弱くても良いのかなって思えるようになってきた。

私と考え方も違って、今まで会ったことない人間で、今まで存在は知っていたけど深く関わることはなくて、毎日色んなものを貰っている。

「頑張れ」だとか「逃げるな」とか「耐えろ」っていうような世界からはほど遠くて、自由で、いつも進んでいて、まあこれも良いのかなって思う。弱くなったと思う人もいるだろうけれど、これ本当に弱いからこう思うようになったのかな?

 

世界がRPGで出来ている。その時々にしか会えない人達がいる。きっと、一年前の私ならこの出会いに意味がなかった。図ったように出会わせてくれた神さまとやらに、ありがとうって小声で呟きながら一人でご飯を食べた。