C'est la vie

新大陸の湖畔

魔法使い

 

魔法使いはかつての魔法を忘れていく。

一瞬にして恋焦がれたあの夢は、冷めた化石みたいに温度を失って手の内に固まったままだ。

あの頃の熱を取り戻そうとも、虚像ばかりに縋っているだけで、本当に愛していたあの頃には戻らない。

あまりにも私たちは独りになれなくて、他人の温もりという欲望から離れられない。

魔法は孤独の中に光る輝きでしか夢を見せられないのだ。

 

みんな外っつらだけ良いように体裁整えて、ほんとのことなんて誰も何も言わなくて、それが誰かを苦しめてるって気付かないでのうのうと善人ヅラして生きている。そしていつか自分も、本音と建前を上手く駆使して生きていくのかなって、こんなぐちゃぐちゃな気持ちを笑い飛ばせる日が来るのかなって、なんだか本当にやるせなくなっちゃう。

みんな上手く建前を使って本音を隠したような気になってるのかもしれないけど、バレバレで、結局みんな自分が一番可愛くて傷つけたくないから。そういった自然とも傲慢とも言えるこの行為に無性に腹が立って、自分もいざとなればどっちかって言うとそっち側の人間になっててより一層虚しい。

みんな揚げ足を取ったりするのやめようよ。肝心なことを言わない狡猾さなんて捨ててしまいたい。正直なまま回りくどくなく生きていたい。

 

 

 

日が沈み、夕闇が街を覆うと

見たこともない暗闇が辺りを這いずり回って

郊外に自転車1つで来てしまった私は

遠くを走る車の微かなライトが足早に過ぎ行く様を

ただ目を細めて見つめるだけで

どんどんと暗闇を濃くしていく空

それを眺める絶望感たるや

忘れない

 

海の上を照らす太陽が

遥か向こうの地平線に沈んで

また明日には違う方向から照らしてくる

毎日その繰り返しでそれはとても綺麗で

ただこの灰色の街だと分からないけれど

いつもどこかで生まれて

どこかで死んで

そういう物の始まりと終わりみたいな

生と死みたいな

サイクルが、ごく当たり前かのように

この曲には眠っている

 

全ては円で支配されている

最もそれが綺麗な形なのだと

私は本当に絶望するんだけれど

あなたはグロテスクに教えてくれる

 

 

あじあのわたし、どんな人?

 

世界から見たら私は紛れもないアジア人で、顔の平たい民族で、でも自分と違う人がこんなに沢山いるんだからもうどうだっていいよ。私が無理に背伸びをして違う誰かにもならなくていいし、そっちがそうなら私もこれでっていう感覚でした。

皆んなが1つずつ違うから交わった時の感動がすごいわけで、最初から違うことがこんなにもありがたいことだったんだと、初めて分かる。

これは大発見だよ、ワトソン君。

 

大人になるってどういうことなんだろうっていつも思う。人より何か出来ないので、そういう頭を使って賢く生きることが大人になることなのかなって。お父さんはよく、もっと頭を使って生きろって言うんだけれど、確かにそうだろうなって思いながら、何気ないその一言で私の中の劣等感とか焦りとかを育てていく。

今まで、少なくとももう20年ぐらいは経ってて、たくさんの時間があったのに、賢く大人に生きる手段を知る時間も方法もあったはずなのに、そんな劣等感とか焦りとかだけが足枷みたいに繋がっててなんにも解決しないままにズルズルぶら下げている。

 

スピード、強さ、正確さが善とされるこの世界で、私は初めてこの町が安心出来るような気がした。この劣等感とかも別にぶら下げていいんだよって言われてるような気もした。だってみんな隠さずにぶら下げているもん。いや、それを劣等感とさえ思っていない。

 

私はやっぱりそっちの世界に行きたいのです。誰でもない私として、そちらで生きたいのです。

 

 

 

言葉の棘

 

昔から言葉をその通りに受け取ってしまう癖が抜けない。照れ隠しだの、本意を悟られない為に正反対の言葉を浴びせられるなんてことがあると、もういても経っても居られない。実際にそう思われているんだなと解釈してしまう。

ツンデレなんてその最たるものだ。あんなの、リアルの世界で言われたら1日落ち込んでる自信がある。例えそれが照れ隠しだとしても。

 

何気ない一言はいつの間にかゆっくり私の中に蓄積していって、夜にはどっさり溜まってるから本当に疲れてしまう。行間を読むという行為があまりの重労働で、あの言葉の真意は~とか考え出したらもうお手上げ。

 

言葉の棘みたいなのが見えていて、刺さった瞬間とか分かる。きっといつかボロボロになる。

 

 

東京

東京、雑多すぎて歩くだけで疲れてしまうし目の前で起こる物事の情報量が多すぎるから頭が処理しきれなくてパンクする。

僕は敢えて心を無にして、何にも心がとらわれないように無関心にぶっきらぼうに歩く。じゃなきゃこちらがやられてしまうよ。

イヤホンをして、死んだ目でただロボットのように歩いてみる。肩にぶつかったら「あ、すみません」って言い合って、でも3歩進めば全部忘れてる。

それに慣れてくると、ああこうして人は心が死んでいくのだな!と思ったり!心が死んで何が出来るんだと思ったり!

自分の心を守るのに必死なのかなって思う。

 

田舎って言われるところにこの夏はよく行った。僕の故郷もこんな感じだった。だから、空の感じ方とか、山の大きさとか、全部僕のものだったことを思い出した。

最初は怖いなって思ってたんだ。暗闇を一生懸命自転車で走らせて、文字通り命を削って夜の空気に触れていた。でも何かを超えた瞬間に、山が守ってくれるような気がしたんだ。僕の中心はその瞬間にすごい勢いで開かれた。凝りが解れて身体中に血液が巡っていった。なんだか、大きなホールに1人で立っている孤独感と戦っていたのに糸が切れてどうでも良くなって、まるで僕ら1つになった瞬間みたいだった。

僕の中に新しい感覚が生まれた。

 

東京は狭い。関心を持ちたくても持てない。街全体がほっといてくれって反抗期の少年みたいなんだよ。

 

 

 

 

徒然草

今まで出会う人それぞれから良いものを貰っていた気もするけれど、なんだか最近そこらへん、滞っている感じがする。前より幸せだなって思うことがなくなった気がする。

なんでかな、って考えて、何か大事なものをすっかり見落として道を進んでしまったような気持ちになる。

人の目を気にしすぎっていう悩みだって、今思えば気にしすぎなほうがちょうど良かったのかもしれない。

誰かの発言力の強さに圧倒されて、いつのまにか考えることを放棄して、無意識にそいつに任せっきりになってしまっている。でも、そこで自己嫌悪に陥るわけでもなく、何故かそいつのせいにしちゃいたくなる。

一緒にいると、刺激は貰えても自分が窮屈になるのなら未来はない。

なかなか人を好きになるとは難しいことなのだと思った。

 

 

 

 

無慈悲と子ども

 

昔はいくらでも自分は愛されるんだって根拠のない自信に満ち溢れていた気がするけど、いつからこんな何もない人間になっちゃったんだっけ。

客観視の客観視の客観視の僕が、何かをするたびに否定的な目を向けてくる。誰の目を気にしてるかって、やっぱり僕なんだ。

存在が丸ごと愛されている実感とかって本来は優しいパパとママに貰えるものだと思ってたけど、最近はそうでもないみたい。

僕にはまだ出来ないことが多すぎて、ただでさえ客観視の客観視の客観視の僕がそれを懇々と責め続けているのに、ママがもっとすごい言葉で僕を脅かしてくる。

ママは愛が空っぽになった枕で後頭部を強く打ち付けてきて、その度に客観視の僕がむくむくと正体を現してくる。飲み込まれないように、必死に足掻いて、呪文のように「僕は大丈夫、僕は大丈夫」って唱える。

 

今はどうも環境とか運勢とか人とかのせいにしないとやってられないみたい。僕を構成した全てものに「今までの時間を返してくれよ!」って泣き叫びたくなる。

 

身近な人に裏切られ、失望されると考えただけで涙が止まらなくなる。

どうか、僕をひとりにしないでくれ。

 

 

 

大海原

 

生まれた時から大海原にぽーんと投げ込まれて、押し寄せる波に喘ぎながらもなんとか前に進んでいたようだけど、それを色んな形で辞めざるを得なくなった。

もしかしたら、それを「幸せ」として受け取るべきなのかもしれない。そのかわり、波止場は消えた。ただ波のテンポに乗って揺れているだけになった。

精神的な波止場に、なんども傷つけられてそれを波止場と思えなくなった。帰る波止場を失った。

一方で次の目的地を持たなくなったので、それが今はとても怖い。漂流してくる何かに力いっぱいしがみつくことが生き甲斐みたいなとこ、あったから。

ただ、揺れているだけでいいんだよってサティとかラヴェルとかがちょっとした皮肉を込めて説得してくれる気がする。気がするだけ。

何もかもが小さくなっていく。心とか頭とか、想いとかが、どんどん小さくなるこの端末にぎゅうぎゅうに込められていって、見えない虚像に縋ってる気になる。この小さい端末に、強くて大きくて立派な何かを求めて、そんな自分が酷く矮小に感じる。

 

卒業したら何するのかとか

自分の中にある何も持たない自分をどこまで信じていいのかとか

妥協するべきなのかとか

 

チラッと物の死を考えるまでには最近何もかも満たされないのだ。

 

 

エイリアンズ

梅雨にピッタリな曲を見つけた途端に晴れやがって、ちょっとこの野郎とお天道様を詰りながら学校に行く。気分は薄暗い部屋でカーテン越しに落ちる雨を見ているようだから、多少文章がアンニュイみたいになっちゃうのは許して欲しい。

 

最近、色んな人に会う。色んな人と言っても、みんな味がある人達で一言では表現出来そうにない曲者揃い。高校の時の元カレ、特殊能力がありそうな優しいあの人、泣くほど大好きだった初恋みたいな人。ああ、一言で言えちゃった。でも思い出すだけで目元が少し暖かくなる類の人達。

みんなそれぞれに確かな哲学があって、思わず惹かれてしまう魅力的な人。自分の中の足りない何かを埋めてくれそうだから好きって思うのかもしれない。

みんな確実に前に進んでいて、色んな紆余曲折もあるんだろうけどそれでも前に進んでる。彼らの残した軌跡みたいなのをちょっと聞いてみたくて、聞いた後に丸ごと抱きしめてあげたいような感情に襲われる。愛か?これが愛なのか?

ちょっと気持ち悪い書き方をするんだけど、これもアンニュイのせい。

私が彼らのこの先の人生において、そのレールの車輪にも部品にもなることはないんだけど、私はそれでも今、彼らが今日もどこかで生きてくれていることにこんなにも幸せを感じている。ある日ふとテレビを見たりチラシを見たり書店で本を見かけたりして、その名前で心が少しだけぽかぽかするようなそんなささやかな幸せがいつか実現しますように。どうか、そんな誰かが誰かを想う気持ちがいつまでも長く続きますように。

 

 

帰り道、一人で歩きながら小声で歌う。

 

君が好きだよエイリアン

この星のこの僻地で

魔法をかけてみせるさ

 

 

 

無題

電車の中での暇つぶし。最近は中島義道の読み物が楽しいので完全にそれに影響されている。

 

私にとって日常を生きていくには、少しの闘争心と少しの自己批判精神と強く生きていくぞという意志がいる。そうじゃないと、ふにゃふにゃになっちゃって全部がどうでもよくなっちゃって、それを見た後ろの私がやる気がないヤツめと卑下し始める。

客観視の客観視の客観視の客観視みたいな世界で生きているから、常に誰かに見られている気がする。誰かが私を見てて、その誰かをまた違う誰かが見てる。まあ誰かって自分なんだけど。

元来の真面目さがどうも悪いように作用してよく勝手に苦しんでいる。最近は親のせいにしたり環境のせいにしたりこのでっかい日本のせいにしたりして、違うどこかに行きたがる。

昔を知る人間に会うといつも相変わらずだねって笑われる。この機関銃のように喋ったり息遣いとかが上がっているように見えるのがどうも焦っているように見えるらしい。うーん、難しい。焦りたくないから、自分の中におっとりゆっくりした大人な女性像を作ってみる。手っ取り早く壇蜜みたいな人でいいや。

演じてみるけど、結局違う誰かになってそれはお前じゃなくない?とかって嫌な真面目が出てきてまた自己嫌悪とか客観視の客観視の客観視が発動。めんどくさいにも程がある。

 

客観視の客観視の客観視の客観視を辿っていった元の私に意識がストンと戻ってくれるのはいつのことになるのかな。

 

 

枠にはめる怖さとはまる安心と本当の気持ち

 

言葉とか、関係とか、目に見える何かで脳みそを押さえつける。心なんてなかったことにしている。だからいつも、私の心はどこかバグったまま、涙は止まらないし自分でもびっくりするような行動に出てしまう。後先考えない衝動に身を任せてすごいことをしてしまう。しわ寄せがたまらない。

でももう、それじゃダメでやっていけないことも知っている。でもこんな生きづらさ、小学校の時には分かっていた。時間が経ちすぎているのだ。手遅れだ、

頭だけが行き過ぎて心だけが取り残された今、悲鳴をあげている。もう無理だ、と心が泣いている。

 

 

焦っている。

 

自分の気持ちなんて自分が1番わからない。どうしたいのかわからない。

人がそう言えばそんな気がしてきたり、簡単に意見が変わっちゃったり、ホントの私はどこに行っちゃったのか悲しくなる。

頭で考えすぎてホントの感情が見えなくなったり、普段思っていることと反対の感情を顔で表現したり、傷ついたって言えなかったり、傷つけたくないから言えなかったり、こうしてあなたへと続く何かが少しずつでも確実に消えていく。

 

明け方見る夢はドキッとする。夢の中だと普段の頭の制約から解き放たれたように思う。完全に感情だけのパステルカラーの世界にフワフワと漂ってる気分になる。ホントはあの人と仲直りしたかった、あの人のこと傷つけたくなかった、あの人のもとで感じてみたかった、色んな感情が吹き出してくる。何が嫌って、朝起きたら全部覚えていること。

 

微睡みの中で、私はまた頭の世界に戻ってくる。ホントの私が雲隠れするから、放心状態でまた次の夢までホントの私探しをする。

 

もしかしたらホントの私なんてどこにもいないのかもしれない。いつの日か、ホントの私が復讐のために反旗を翻して私の元にやってきた時、私はどうなっているのか分からない。多大な信用とか制約とか信頼とかを無くしているに違いない。

 

焦っている。

 

 

なやみごと

自信と慢心の違いを分からずに20年も年を重ねてしまったから、少しポジティブになると「調子乗ってる」って勘違いして自分をなかなか許せない自己肯定感低いマンになってしまった。

 

私の大事な人達はいつでも私のことを焦りすぎと表現する。普通に生きているつもりなのに。

でもあの人たちの凄いところは、「そんなお前もお前なんだよ」って、批判もせずマウントも取らず、私にできない自分を許すってやつをやってくれる。

 

いつか、時間の流れがゆっくりな所で色んなものを嗜める私でありたいよ。

 

 

誰にでも分かるもの

 

会えば不思議な気持ちになる人が時々いる。そういう感覚とか、いわゆるファーストインプレッションとかいうやつは割と大事にしたい。

そういう人に限って、言葉で限定したくない気持ちになる。この人はこんな人だよ、っていうのは一番邪魔でそんなモノサシなんかはいらない。

 

「ヤバイ」って言葉は割と好きだ。全部を曖昧にしてくれるから、安心して逃げていられる。こういうモノサシはコミュニケーションを取るという点では大事な鍵になるはず。共通認識を深めるためによく使ってしまう。

「ヤバイ」を使わずに「ヤバイ」を表現出来る人々には脱帽。もうホントヤバイ。

 

小さい頃から宝物のように持っていたギルシャハムのフォーレ小品集のCD。試しにSpotifyで検索してみたら普通にあった。なんか寂しくなった。いつも頭が悪い人みたいに「ヤバイ」という超絶普遍的な言葉を好んで使うくせに、この時ばかりはこの普遍性は好きになれなかった。どこにでも転がっている私のノスタルジー。汚された気がして、ちょっとつまんない気分になる。

 

誰にでも分かる、交通手形みたいな、そういうのってみんなどうして使い分けてるんだろうな。みんなこんなちょっぴりほろ苦いような思いをしているのだろうか。