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Le Nocturne

深淵を覗く時

思い出再生装置

雑記

昔使っていたipodが引っ越しの時に出てきたから充電をして持ってきた。色々故障していたけれど、ミュージックだけは健在だった。

 

懐かしい曲ばかりで、一曲一曲聞いていくうちに色んな思い出が甦った。それはかなりの色と温度を伴って四肢を満たしていく。

 

そういう装置、あれば楽しいだろうなって思ったけれど、それは音楽だけがそういう役割であり続けてほしいなとも思った。

 

文章は経験値によって受け取り方が変わってしまうけれど、音楽は変わらない。変わらないことは残酷だけれど救いだ。有限のなかに生きる僕たちだけれど、音の刹那のなかに永遠を見出だしてまるでそこに永遠があるかのように振る舞う。ある意味希望的観測。そんな自慰的な脆さを孕む音楽はやっぱり一番の慰めになるなと思う。

 

思い出再生装置、多分ない方が幸せ。

 

 

深海

多分僕は馬鹿なんだと思う。頭の賢さでも、おそらく人間的にも謙遜でもなんでもなく、総合的に見て不器用さが際立っている。汚い。

 

ああ、まただ。体ごと海の底に沈んでいくこの感覚。耳元で空気が「ゴポ...ゴポ...」と漏れていく音が聞こえてくる。もがけばもがくほど口からは息が漏れ、服に水がまとわりついてくる。アリ地獄のように海が僕を絡めとっていく。可燃性の命は今まさに僅かな灯を切らさまいと叫んでいるが、この声は誰にも届く様子ではないようだ。

 

今から僕の汚い何かをここに晒すことになる。気分がよくはならないから嫌な人は見ないほうがいい。知らないほうが良いこと、世の中にいっぱいあるから。

 

ペンギンは砂漠では生きていけないし、サボテンは亜熱帯では育たない。金魚は空を泳がないし、雲は地上に降りてこない。適材適所なんてありがたーいお言葉、今の僕には曖昧な指針でしか意味を感じ取れない。毎日毎日本当の場所はここじゃなかったのかもしれないと疑いながら生きていくことにもう飽きてしまった。周りのみんなは何の柵もなく命の灯を燃やしているように見える。頑張るってなんだ。音楽ってなんだ。言葉ってなんだ。僕たちどこから来たんだ。楽しいこと、したいだけなのに色々許してくれない自分がいる。ほんとはもっといろんな場所に行きたいのに、かつて自分を制御し支配していた優等生の仮面を被った窮屈な僕が解放してくれないみたいだ。こんな僕に「はてはて、努力論とはいかなるものなりや」などとくどくど小言を言われ続けている。好きな場所へ行くことは逃げることなのか?「逃げるは恥だが役に立つ」?

最早コンクールを受ける意味すら分からない。世界的に名声があるプレイヤーでさえ何かに挑戦していて、もうその人たちのおかげで音楽に救われる人々というのは何万人もいて、はてはて僕が音楽をやる意味とはなんぞや、などと無駄な思索を繰り広げてみる。だって、僕がいなくても世界ってちゃんと回っているからなあ。

コンクールな話を抜きにしてもだ。自分の出したい音が出ない。やりたいことが何故かできない。頭の回転が遅いがゆえにままならない音楽。自分で弾いていて時々曲に対して本当に申し訳がなくなってくる。良いように調理してあげられなくてゴメンね。君のことわかってあげられなくてゴメンね。

 

よく思う。もし自分が普通大学に進学していたら。ちょっと興味のあることを勉強して、ちょっと音楽に詳しい普通の女子大生の自分。時々かわいい服を着て、渋谷か原宿でパンケーキを食べてその写真をインスタグラムにあげる自分。適当に恋愛して、適当にセックスして、適当に就職活動をして、適当に卒業して、適当に会社に働いて、結婚して、子供ができて。そんな人生が嫌なんだという気力さえ奪われたようなこの深海は、とても暗い。トンネルはちゃんと終わりがあるからトンネルなんだ。これは、まさしく深海。

 

夢って何だろう。多分たいていは叶わない。どれほど多くの先人たちが夢破れて死んでいったのだろう。分からない。自分はどこへ向かっているのか、暗中模索なんて四文字で収められるほどこの海は浅くない。

 

 

月 Episode2

 

いつも見ている月が幾分にも拡大されているような気がしたので、よく目を凝らしてみたものの次第に意識が薄れていった。どうやら、月のことを考えると思考が停止するようにかの組織に操作されているのかもしれない。私はこうべを垂れるまでもなく意識を深く落としていった。

 

次に目を開けた時、白い月が前方方向右手に見えた。月が追いかけてきた、と悟った私は驚くこともなく恐れることもなく雲に浮かぶ月の欠片がはらはらと後ろに零れ行く様を間近で見ていることに大きな幸せを感じていた。

隣のおじいさんが「あの月の破片がね、町に光を灯しているんだ。町の人々は空から降るあれを大切に手で掬ってから火で溶かし、固めてからそれを首に下げるんだ」と言った。なんて不思議なことをするのだろう、と惚れ惚れしていたらまた急に頭が重くなったような気がした。

その時、なるほどだから月がこの世界で一つしかないのか、と納得したものだった。

 

 

 

人生 Episode1

真理っぽいもの

 

ずっと自分とは何者なのか、どこから来たのかを探していた。そうじゃないと僕は僕が僕たる所以を分かってあげられない不安から救えないような気がしたんだ。

僕はもしかしたら海から来たのかもしれないし、はたまた宇宙かもしれない。雪から生まれたかもしれないし、雲だったかもしれない。どうしてヴァイオリンを弾いているのか分からない冬。トンネルを掘り続けることを強要した夜。強くなりたいと思った真夜中。一人がこんなにも怖くて実り豊かな時間だったんだと目が覚める夜明け。

でも不思議なもので、時間が決して巻き戻らないことが救いのような気がするんだ。僕が僕である理由なんかいらないと思えた春。きっと人生はゲームなのかもしれない。満たされたような喜びも、体を貫く悲しみも、空から眺めたこの街を一望する楽しみも、泣きながら晩御飯を食べた悔しさも、全部こんな感情を楽しむための人生なんだと。音楽が教えてくれるの。好きだっていう心だけが時間を前へ推し進めてくれるものなんだよ。それが生きることなんだよって。

ずっと苦しまなくていいんだ。楽しいことは楽しいって声に出せばいいんだ。別に嫉妬したっていいんだ。幸せなら手を叩けばいいんだ。何にも代えられない今しか僕たちは命を燃やすことができないんだ。

移り行く空模様に誰も文句を言わないように、本当に僕の好きな色を見つける旅に出ようよ。そんなことがただの綺麗ごとだと嘆き悲しむ昔の僕も一緒に連れて行ってあげよう。一周回ったこの気持ちは見せかけの強がりなんかじゃない、澄んだ空なんだよ。

 

 


作詞 椎名林檎 
作曲 椎名林檎
唄 東京事変

 

心と云う毎日聞いているものの所在だって
私は全く知らない儘大人になってしまったんだ
頬に注いだ太陽に肖る快感
前を睨んで性を受け直す瞬間
手に取って触るだけで 解った気になっていた私に然様さようなら
妙な甘えでもう誰も失いたくない
逢って答えをそっと確かめたいけど
触れ合いに逃避するのは禁止 戸惑いつつも変えているんだ
生まれてしまった恥じらいを今日嘲笑わず耐えて居たい
私は何度溺れたとして泳ぐことを選んだんだって
宵の苦悩に苛まれながら覚醒
縦横無尽に感じ剥がしていく行程
此処ここで見抜いて新しく会って 向き合う私に気付いて
汚れてしまった恥じらいを今日受け止めて添いたい
私は何度堕ちたとして生きることを選んだんだって
雲すらとうに逃げた後の秋ヶ瀬公園は
私の全く知らない様な刺々しい冬を唄う
心と云う毎日聞いているものの所在だって
私は全く知らない儘大人になってしまったんだ

 

四月への雨

雑記

今日は久々に何もない一日を頂いたから、せっかくだし海を見に行こうとも思ったが天の思し召しにより朝から春の雨が優しく降っていてなんともこの外出する気の失せるお天気に素直に従うことを思う。春の雨はだんだん暖かくなるための道しるべみたいなものだと思っていたのに最近めっぽう冬に逆戻りしている感じがして、歩きながら色んな場所で鉛色の冬を思い出す。こんな日の朝はくず湯をゆっくり飲みながらベートーヴェン暗い曲でも聞いてまったりするのがいい。最近は電車の中でも座った瞬間に記憶がなくなるぐらいには疲れていたからこういう日が本当にありがたい。

生まれてから数えると引っ越しをもう7回経験したことになる。海の近くだったり、山の上だったり、雪がたくさん降るところだったり、下町だったり。でも一番は海の近くだったあの家が好きだった。夕暮れの時間がゆっくり流れることが許された朱色の匂いを纏わせた空気が海の上で風になって駆けていくのを見るのが好きだった。

自分の部屋を整理していたら昔に図工の時間に描いた絵が沢山出てきた。その絵たちにはほとんどと言っても良いように『海』というモチーフが出てきていた。ある時は魚だったり、またある時は海の上に浮かぶ雲だったり。(その次に多いモチーフは『秋』だった。) 海が好きすぎてちょっと自分でも引いた。海、特に水については何か特別な感情を抱いていて、きっとそれは十人十色生きている人の数だけ思う水の色があるのだと思う。

 

ミレーが描いた『オフィーリア』はご存じだろうか。私が思い描く『水』という理想に一番近い絵画である。(当時の時代背景や手法については調べれば出てくるし、それは私の血肉となって出てきたものではないのでここでは割愛させてただく。)

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水という本来人間を生かすも殺すこともできる無限に命の形を変える存在の中で今にも溺れそうになっている女。だけど表情はどこか恍惚としている。もうすぐ息絶える女の横ですべての時間が緩やかに停止しそうな感覚に襲われる。このまま誰にも気づかれない内に女は死んでしまうのだろうか。この女のように死ねるならそれもそれでアリなのかなとか不埒なことも考えた。

 

あー海行きたかったな。

 

 

雑記

雑記

お風呂から上がった後の時間は本当に幸せしか詰まっていない。

この時間にはどんなことを考えてもいいし、どんな馬鹿なことを口走ってもどうでもいいし、全部全部微睡みの中に後で落としこんでしまうから何を思ったって許される気がする。

 

震災から6年が経ち、テレビでは津波の映像が流され、心は痛むけれど案の定ツイッターでは黙祷ツイートに対して批判した意見に溢れ返っている。それぞれが色んな想いを持ってどう行動するかなんてその人の自由だし、黙祷ツイートするなという意見の押し付けも見苦しいものなんだろうが、この「押し付けるな」という意見を押し付けている時点で何もやっていることは変わらないよな、という永遠と続くいたちごっこ。

みんな本当に狭い世界で生きて死んでいくんだろうな、と光に反射する水面を眺めながら今日の津波の映像を思い出す。

自分の意見を表明する必要性がどこにあるのか分からないまま片手にスマートフォンを掲げた現代人はどんどん脳みそを縮小させて最先端を生きていく。SNSにより繋がったという幻想を抱かせといて実は何にも繋がっていなかった僕ら現代人は多くを知りすぎたように思うし、多くを知ることによって正義を振りかざすことの容易さを知った。正義で人を殺すことは簡単だ。

 

やっぱりツイッターもグーグルマップもまだ知らないあの頃が好きだった。

 

 

昔の話

雑記

少し昔の話をしようと思う。

きっと今も昔も生きていく年数だけそれぞれの歴史があって、人には人の歴史の重みがあると信じている。人には人の乳酸菌よろしく。

現在私も沢山の思い出を絶賛大量生産中だ。質も量もバラバラで、だけど死ぬときに例え持っていけずとも記憶は匂いや色や音を携えて何度でも甦らせることが出来る。過ぎ行く過去が取り戻せないように、そして未来が決して過去の延長線上にはならないように。

そんな私のたかが知れている歴史のなかで、何故か流血事件だけが群を抜いて多いように思える。つい最近で言えば料理中に包丁を落として足の甲に刺さったりもした。馬鹿なもので私は膝から下の怪我があまりにも多い。

小さい頃、まだ自転車二人乗りがそんなに悪いことではなかった頃、祖父の自転車の後ろに跨がっていた走行中に、油断した私は気付いたら左足が自転車の後輪に巻き込まれて暫くのギプス生活を余儀なくされた。

小学校二年生の頃、昼休みの予鈴がなったら多くの生徒が外靴を片付けるために狭いくつ部屋に殺到するのだが、突然私の前を走っていた下級生が手に持っていたピンクの縄跳びを落としたらしく拾うためにいきなり屈んだ。気付いた頃には手遅れで私はそいつを跨ぐことも出来ずに石に躓く要領で派手に転んだ。不幸にも地面が荒いコンクリートだったために凄い勢いで膝はずる剥けになり、今となっては笑える話だが暫くその辺には私の血痕が落ちていた。雨が降っても何故か消えない私の血痕に同級生は散々私をいじり「これは私の血である」と、イエス様よろしく何とも冗談に聞こえないギャグを私は連発した(当時通っていたのはカトリックのミッションスクールであった)。今でも思うがこれは私は悪くない。いくら私の運動神経がそんなに宜しくないという事実を抜きにしてもだ。

小学校低学年の頃に、山の上にあった私の学校は駅までほぼ一本道だったのでよく誰が一番に駅に到着するか競争をした。その日は雨が降った後のぬかるんだ坂道だったのでただでさえ滑りやすいのに、ローファーというコンボ技でもう滑ることは必至だった。案の定私は急カーブに差し掛かる所で派手に転け、まだ乳歯だった右前歯が欠けた。鼻から鼻血が止まらず、当時親に持たされていたピピットホンでワアワア泣きながら電話を掛けたこと、今でもはっきり覚えている。

このように、黒歴史ならぬ血塗られた赤歴史が多いように思われるが、人間いつになっても肝心な所では成長しないみたいだ。悲しい。

 

茶番は置いておいて(しかし以上の話は全て実話である)昔話を誰だってするだろうし私も嫌いではないのだが、旧友に会うことで「昔は良かった」と連呼せざるを得ないこの現在に大変嫌気が差すことが多い。旧友なのだから、当然話の話題は昔話にシフトするのは当たり前なのだろうが上京してから旧友とご飯に行くもののそれがつまらない私はいつしかご飯に行くことも断るようになり、そして誘われなくなった。振り返りたくない過去があるのではなく、単純にそれってそんなに楽しいの?という所である。なにそれおいしいの?って感じ。(強がりに聞こえるならそう取ってもらっても構わない、がこれは本心だ)

本質に迫りうる話を多くの人と語らいたくないので自然と付き合う人間が限られてくる。

 

もうひとつ、最近気付いたことだが私は人の話を聞いているときにどうも頭のなかで色々と処理をしているみたいで、相手が何かを言ってくれたとしてそれに瞬時に反応したり感想を言えたら良いのだが、「この感想、さっき言ってくれたことと被るな」とか「私がわざわざ二回も同じこと言う必要ないな」とか単に感心してまだ自分の意見が纏まってなかったりする。私はよく分からないが考え事をしている自分の顔は多分かなりのブサイクだ。人によっては「そんな意見認めない」と言わんばかりの不貞腐れた顔になっているはずだ。というかそう見えても仕方ない顔の造りになっている。なので、結局相手には興味が無さそうに見えたり訳が分かってないように見えていたらしい。

それも関係するのか知らないが、私は人に対して怒れない。怒らせるようなことをされたとしてもその時はまだ怒りの感情が湧いておらず、何となくある違和感をよくよく調べてみたらどうも怒りに似た感情らしくジワジワと「あれ、怒ってる?今私怒ってる?」といった過程で怒るのだが、時すでに遅しということ。

 

人間関係とは実に複雑で、それは私自身の力でなんとかなったりならなかったりすることばかりだ。人とのご縁は自力ではどうにもならなくても、誰と付き合っていくかは何となく決めてはいけるものだ。だけど思えば長く続いた「親友」的なものは私には居ないし、どんなコミュニティにも云わば広く浅くでしか接して来なかったのでこうして今ツケが回ってきている。一人が好き、という事実がこの事態に更に拍車をかけているようだ。今どんなに仲が良い人ともいつか別れがやって来るのだろう。始まると言うことがあるとするならば終わりが必ずある。人間関係とはそういうことだ。(異論認めます)

影で色々言われているのだろうがそれをわざわざ弁解するほど頭も良くないし、実際にそう見えてしまうのだからそれもそれで本当の私なのだろう。

それでも私が人付き合いを完全に断たないのはそれぞれが握る不思議な要素的なものが出会ったときに起こる化学反応があるからだし、これぐらいならいくら人付き合いが苦手な私でも分かる。あと、物理的に人付き合いを断つことは無理ってのもあるけど。

 

少し弱っている自分のための応援歌のような今回の投稿。でも面白いということもちゃんと分かっている。

 

 

夕日の色

 楽語や音符、音名や表示記号、目に見える情報というものがただただ鬱陶しかったあの秋の暮。どうしたら「音がただそこにある」という演奏に近づくことができるのか、何か外してはいけない筋みたいなものを幾度も乗り越えたその先に見えるまで、まるで真空のような音しかない世界にたどり着けるのかが分からない。

 そう、死ぬまでの残された時間なんて本当に限られている。親しい人が死んだわけでもない、何か直接的な関係があったとかでは全くない。しかし、昨日の夜は布団でじんわりと温められていく足とは反比例して心のどこかで「夜」が「死」がそこにあった。小さい頃は何かここではないどこか遠い場所に思いを馳せる瞬間があったけど、それと同時に自分がどこに向かっているのか分からなくて恐怖した。今日という日が一回しか来ないこと、たとえ同じ電車に毎日乗るとしても、何かそういうことが本能的に分かっていたから今日という日を最高の一日にしたいといつも無意識にも思っていた。でも夜のお布団の中で本当に私の体はいつか冷たくなり、燃やされ、灰になって消えゆくことを想像してみると「死ぬときに一体全体私は何を向こうに持っていくことができるのだろうか」と悩む。

 死をダシにしたお涙頂戴のストーリーがありふれているこの世の中で、何故か人前で大きな声で死ということを話すのはなんだか憚れるような空気がどこか蔓延している。別にそういった話を東京のど真ん中で話したいとかいう願望があるとかではなく(そういうのは然るべき宗教団体にお任せすればいい)、どこかで永遠に続くと思われているこの日常に我々はあまりにも平和ボケしすぎているような気がしてならない。私の大好きなAvril Lavigneだって”Is it enough to breathe? Somebody save my life."と言っているのだ。残された時を息をしているだけで十分なはずがない。

 だからなのか、分からないけれど音楽がやめられない。そこには音楽がしたい!という積極性を持った姿勢ではなく、一度味わえばやめられないという病的なものかもしれないし私はそういう音楽の在り方のほうがしっくりくる。

 

 話がだいぶん逸れた。何か新しいものを創造するという行為のみが生きていると思っていた数年前の私ならきっと上記のことがスラスラ言えたに違いないけど、今は少し違う。確かに死ぬことは怖いし、この世界における「死」という概念がぐっちゃぐちゃになっていて生き辛さを感じていることには変わりないし、音楽におけるスリルはやめられないほどにもう私の体を蝕んではいるけれど。でも速足でどこかへ駆け抜けなければ生きている実感が得られないわけではもうないし、毎日同じことの繰り返しこそが本質に迫りうる唯一の武器になることの確証も得られた気がした。結末を早く知りたがるその性は頭が切れることでも賢いわけでもない。結末をあえて先送りにできる勇気が無いだけで、あえて身を預けて流されることを恐れているからだ。もっと世界は可能性を持っていて、余白が存在するはずなのに。

 音楽の本質に近づくための手段として当面の目標みたいなものは設定するようにしている。ここ最近は細かい目標は変わるものの、一番は「どれぐらい音そのものを言葉の音の域まで近づけることができるか」にしている。本当に言葉の次元に達した音楽は、聞いている者に不思議な感覚を授けてくれる。誰が、何の楽器で、どこで演奏しているといったディティールは音を繋ぐためのただの媒介にすぎない。音そのものが言葉となり、息遣いが見え、そこに命があることを証明しているかのようだ。それは巨大な音楽の効果として人々のうちに余韻をもたらし、まさに「生」を実感する。それは食べるといった行為や性行為という一時的な命をつなげるふるまいにはない魅力のような気がする。

 アルゲリッチによるシューマンのピアノ協奏曲は、まさに私自身がこの音楽の効果を身をもって感じたうちの一つであり、最初のピアノのワンフレーズだけで曲の最後まで見通せるような、素晴らしい景色を一望したかのような感覚を教えてくれる。シューマンのため息、生きていたということをピアノという楽器を通して時空を超えて話しかけてくれる。ここには最早この場所も、ピアノも、ここに集った観客も、彼女という存在でさえも意味をなさず、ありふれている宙を漂う音の粒子だけを丁寧にろ過して目に見える形で引き出しているだけだった。

 

 

youtu.be

 

何のために、とか、何でなのか、ということが大事にされる世界にはもう興味はあまりない。大切なのは、あなたが何をしたかよりも何を夢見て生きたのか、ということであってほしいし、これがいくら夢物語と言われたとしてもいつまでも心のどこかで願っている。

 

 

今日のお天気は曇りのち雨になるでしょう

雑記

雨を重ねるごとに近付く春に心が踊るのはやっぱりまだ子どもだからかもしれない。巡り来る春に喜びを感じることが無くなった時が大人になった時だ、ということを誰かが言っていたけどそんなことで大人になれるなら僕は一生子どものままでいいよなぁ、だなんて思いながら少しの寒さと雨から救ってくれる京葉線の車内でのんびりと揺られている。

一年前の今ごろは...だなんて思考の空費を重ねてはこの一年で訪れた音楽の概念の破壊と創造に思いを馳せている。人は一年でこんなにも変わることが単純に面白くて、きっとこれから先も誰一人として真実の姿を拝むことは出来ない。死がその人の完成形とするならば、それは本当に笑える話である。

単純に、春に期待する自分がいて、大人にはなりたくないなぁと過去を懐古する。

 

 

上野・入谷にて

雑記

 

その土地での思い出は人との巡り合わせと似ている部分があり、私の場合だと関西から帰ってきた時に見える青白く光るスカイツリーだとか、暗闇に鬱蒼と茂る寺院の木々などが帰ってきたと感じる要因にいつの間にかなり得たのである。

きっとどこに住んだって自分の町だと言えるんだと思う。それぐらい単純で、だけどどうしてこんなにも寂しいのだろうな。

その時までサヨナラ。

ある春の日の夜の話

町を歩くと春が近付いているのを如実に感じる瞬間がある。

体感温度がグッと上がっただとか、降りしきる雨に冷たさを感じなくなっただとか、そんな表面の話をしているんじゃない。

春が冬の心を溶かすような、ちょっとの甘さを添えて私を飲み込むその無邪気さにいつも何かを思い出しそうになって結局思い出せないままでいる。いつの頃の記憶か分からないけれど私がまだ本当に小さかった時。夜の藍色の海が見えるベランダで闇を羽織った風が撫でるように頬を掠めた時。お母さんにだっこをしてもらいながら月明かりを溶かしてばらまいたような海の煌めきを眺めていた春の夜。優しい気持ち。

知らない町から帰ってきて自分の元来た道を振り返ればいつも見ていた景色だったときの安心感とか、多分もう味わうことは出来ない。思い出すことはあっても。

もう戻れない幻想を歩きながらふと思う瞬間が私の中で春が来たと思える証。

 

今年にはもう20歳になっちゃうね、とかもう今年度が終われば大学も折り返し地点じゃない、とか、私が求めていた知らない町の不安とは少し違う今の焦りとかも結局はあの頃の私とは何も変わらないんだと思う。グーグルマップもスマートフォンも無かったあの頃の、「この先を進めば必ず何かがあるから大丈夫」という確信は多分人生にもいる。知らない町からいつ帰れるかという心配よりも、知らない町で私のやりたいことをやりつくした人が、きっと最後はどんな形であれ私の納得の行く自分の故郷に帰れることを信じたい。

いつか巡る春の日に、知らない町から勇気を出して。

 

帰還

真理っぽいもの

恐らく夢物語としても、この道は母なる大海原へ、父なる大宇宙へと繋がっていることはバッハなりベートーヴェンなりブラームスが既に証明している事実であり、自らの命を以てして灯をともしその最期の微々たる炎が消えるまで喘ぎながらも泳ぐことを決意したあの日。

誰にでも心の奥底に故郷があって、それは銀世界かもしれないし、俯瞰したジャングルかもしれないし、自らが母の腹の内に居たときの記憶かもしれないけれど、理由もないのに揺り動かされる「好き」という心の機微に故郷の共鳴が関係していないとは到底思えない。故郷には何かしら「純粋さ」「イノセンス」が伴っていて、限りなく温度が低い冬の夜の星のように無駄を削ぎ落とした霊的な何かが、目に見える表面的な塵に濁ったこの眼を救ってくれるような気がする。それは私の場合は音楽であり、私が救われたからこそきっとこれから先また誰かが救われるんじゃないかと淡い期待を持っている。別に私が救ってやるとかそんな大層なことを言うつもりは本当に無くて、そんな救って救われての関係をたまたま私が結ぶことが出来たなら本望だという話。救うのはあくまでも音楽だから。こんな愚かな夢追い人に祝福を。

変わりゆく虚ろなものに恐れたとしても私はいつでもここに戻ってこれるよ、神様。

 

 

特に意味はないのだけれど。

雑記

 かつての創世記でも記されたように、林檎は罪の果実と言うよりはそれを取って食べるこの行為によって罪そのものの意味が完結するのであるならば、本来この林檎にはそもそも罪の理由もないのに、どういうわけか長い歴史のなかで林檎は罪の果実と間違えられやすいし、結局は罪かどうかだなんて我々が恣意的に決めつけただけに過ぎないんだけれど、そんなことはどうでもよくってだな。どうして大人になるにつれて人は林檎がより一層魅力的に見えるようになってしまうんだろうね。

 人を傷つけちゃいけません。他人のことを大事にしましょう。子供の頃から散々言われてきた文言に縛られて、僕ら実はもう傷付け傷つきあっているのに、どうして今更傷付けまいと何か得たいの知れない文言を今日も破らまいと勤しむのだろうか。どうして自分のことを大事にすることをこんなにも非難されるような世界になったのだろうか。テレビの中で映るさも対岸の火事のような出来事は全くもって対岸ではないし、僕だっていつあの人たちと同じ立場になるのかも分からない。いつだってあいつらと血を分かち合い、同じ果実を毟りとってみせれるよ。

 ある日を境に「いい人」から脱却した僕らは、それはとても生きやすいはずだと思っていたこの生活にも何故だか嫌気が差してきて、もしかしたら都合の「いい人」として仮面を被って生きていくことの方が生きやすいのかもしれない。そうして自分を抑えて自滅していけばいいのだけれど、どうもこの社会を賢く生きるにはそれが最善手なのかもしれないのかな。優等生が好きだったあの頃の僕たちは自分が気持ちよくなることが怖かった。気持ちよくなることはバカになることだと思っていたから。今の僕はもう優等生にはなれないけど、どうもバカにもなりたくないみたいだよ。

 お前が孤独を乗り越えるための言葉を僕に教えてくれたけれど、僕はそれを大いに踏みにじって他人と体温を分けたんだよ。どうだ、僕はお前も、お前を愛していた過去の僕でさえもいくらでも踏みにじることが出来るんだよ。

僕ら裏切って裏切られて負の連鎖なんて止まらない。何もかもがどうでもよくなる夜。なんの発展性もなくなったこのしょうもない下らない世界=自分が何かを認めてしまうには浅はかすぎて、バケツに張った水をおもっくそ蹴り飛ばすようにして「ばっかじゃないの」と声を荒らげることも許されない虚無感に押し潰された今夜は僕たちは生暖かい春の闇夜を羽織って不気味なステップを踏むことしか救いがないね。ほんと。救われないよ。

 

汚さとか傲慢さとか一生交わらない平行線とか全部ゴミ箱に詰めて明日の燃えるゴミに捨ててしまおうよ。それか一斗缶にバラバラにして詰め込んで東京湾か若しくは日本海溝に沈めてやりたいわ。

 

 

三月のライオン

真理っぽいもの

『鳥に似てる。白くて静かでスッとした感じの。鷺とか鶴とか細くてでっかいやつ。兎と亀ってあるじゃん。あれの兎のもっと上。兎じゃなくて鳥。宗谷を見てると自分は亀か地を這う虫のような気がしてくる。

でもって参るのは兎は過信して自滅してくれるけど、宗谷は天才と呼ばれる人間のご多分に埋もれず、サボらない。どんなに登り詰めても決して緩まず自分を過信することがない。

だから差が縮まらない。どこまでいっても。俺はずっと見ていた。同い年の宗谷が風のように奨励会を駆け抜けていくのを。さらにプロになり、順位戦をかけ登っていくのを。

しかし縮まらないからと言ってそれが俺が進まない理由にはならん。抜けないことが明らかだからといって俺が努力しなくていいってことにはならない。』

 

 

 

忘れたくないこと

真理っぽいもの

 

朝、少しのコーヒーの匂いに目を覚ましてお父さんとお母さんにおはよう、と言います。

適当に流れるテレビを横目にバターを塗ったトーストをゆっくりかじります。今日の星座占いに家族で一喜一憂したら、あたしは今から会う大切な友達のことを思い浮かべてバスに乗ります。

友達と何気なしに色んな話をして、特に何かを自覚するでもなく、ぼんやり授業を受けながら友達と秘密のお手紙を回して、お昼休みはただあたしのやりたいことをやって、走って、笑って、放課後はちょっとした秘密を共有して、またねってさよならします。

一人の帰り道で今日も楽しかったぁと思った今日という日はもう過去で、朱に伸びる夕焼けに映し出された綺麗な影を爪先でちょんちょんと突つきながらおうちに帰ります。

お父さんとお母さんに今日はどうだった?と聞かれたけど、なんで楽しかったのかはよく分からなくてただ楽しかった!としか言えない。でも何故か二人とも嬉しそうで、なんだか私も嬉しくなりました。

お布団に入ってたら、虫歯になっちゃうから歯みがきしなさいよ~ってお母さんが言っています。あたしはもう眠たいけど、虫歯は嫌だなぁと思って歯を磨きました。

お父さんとおやすみのキスをして、また明日ねって言ってお母さんが優しく抱き締めてくれました。私はお布団で明日の楽しみを一つ、二つ数えて大好きな音楽と一緒に眠ります。

 

君と同じ景色を見たり、同じことを考えたり、一緒に泣いたり笑ったり、好きな音楽を聞いたり、君がそこにいるそれだけで僕らには充分価値があるんだよ。

大事なものを忘れた僕らは何かを埋め合わせるように夜を越えていくのもしれない。

 

あなたと同じ時に会えた幸運を。

 

だけど、本当に、君がそこにいる理由なんてもしかしたら同じトーストを食べながら星座占いに一喜一憂して今日も楽しかったねっておやすみのキスをするだけで充分なんだ。